Past 第三幕 道化
晴子という女に案内され漸次が行き着いたのは、大型のマンションだった。真っ白な外壁はコンクリートと鉄筋を練りこませた固い作りをしていて、左回りに五分も歩くと小さな公園があり、その手前には駐車場が広がっている。
エレベーターで六階まで上がると、二人は
207と書かれた扉の前で足を止める。晴子が鍵穴にキーを入れると、ガチャっとロックが解除される音がして、まもなく扉が開く。「ま、何もないところやけどゆっくりしていき」
漸治は無言のまま足を動かし部屋の中へ。
あの後店を出た晴子は、すぐに通りをうろついている漸治の後ろ姿を見つけ、自分の泊まっているホテルへ寄っていくようにいった。漸治としてもまだ宿泊場所を決めていなかったらしく、その誘いはちょうどよかったのだろう。すんなりと話はまとまり、こうして晴子の部屋で身体を休めることになった。
「本当はこんな風に勝手によそ様泊めたら宿泊費余分にとられるんやろうけど、まあばれへんかったら問題ないやろ」
扉を閉め内側からロックをかける。なるほど、これならよほどのことがない限り見つかる心配はないだろう。安心して腰をおろす。
「うちな、どうも寝つけんもんでちょっと夜風でも当たってこようと思ったんやけど、あの辺り酒の美味そな匂いがあの店からすいすいーって流れてくるやろ、そんで気がついたら店内入ってまっとった。けどうちあほやわー、元々酒で気分悪うなったから外でたのに、それでまた酒飲もうとしとったんやで」
晴子がそんなことを言っている間中、漸治はずっと濡り布で腕を拭き続けていた。やがて、晴子があの店に寄った経緯を一通り説明し終えると、
「うちにばっか話しさせるのも気が引けるやろ、あんたもなんか言いや」
そう言って急かされると、漸治はふぅ、と一度深くため息をつく。
「…そのわりには水ばかり飲んでいたようだな」
瞬間、晴子のまゆがぴくっと震え、一方的に話していたそれが停止する。
漸治はそれで晴子の話が嘘だと見抜き、追い討ちをかけるように言葉を続ける。
「退屈しのぎに男をおちょくりにきたって感じだったが、そのあたりも含めてなんでだ?」
「ははっ、なに言っとるんや。ぜんぜん意味わからへんわ」
「そうか」
結局、それ以上は何も聞かなかった。別にこの女に特別興味があるわけでもない。体力が回復さえすれば、明日にでも出て行くつもりだった。
腕周りを拭き取っていた布に赤い付着物がついているのに気づくと、晴子は自分の荷物の中から救急箱を取りだし、漸治に渡してやろうとするが、
「いやいい。ほうっておけばそのうち治る」
そう言って、受け取りを拒否された。
晴子は漸治の服装の上から下までを軽く眺めてみる。黒いTシャツをよく見ると、左上から右下にかけて、刃物で切られたように破れていることに気がついた。それが本当に切られたあとだとすると、ジーンズのほうについた赤い縞模様も、デザインではなく血のりと考えるのが自然だろう。
「あんた、ずいぶん穏やかやない格好しとるな」
「………」
「なあ、ひょっとして人を殺したことがあるんか?」
趣味は釣りか? とか、そんなことを聞くのとどう程度の感じで、さも当然のことのように晴子は言った。
「…だとしたらどうする。殺人鬼とでも言って警察に突き出すつもりか?」
「はっ、んな訳あらへん。こんなご時世に刀傷なんて受けるっちゅうことは、あんたどこかのヤクザもんか、それ関係なんやろ。そんな奴を警察なんかに連れていったら、それこそうち、あんたのお仲間に殺されてまうやん」
ひらひらと手を振って笑う。
「だったら、何だ?」
「別になんもあらへん。ただ退屈しのぎに聞いただけや」
「退屈しのぎ……ね」
「そや、これからのうちの一生は全部ただの退屈しのぎや」
「何か、あったのか?」
漸治が問うと、晴子は苦そうな笑みを顔に浮かべ、小さくため息をつく。
「くだらん話や。娘に愛想つかされた馬鹿な女の、母親気取りの愚痴。あんた、聞いてくれるか?」
「どうせ暇だ。吐いて楽になるなら言ってみろ」
「…おおきに」
それから、晴子はゆっくり自分と観鈴のことを話しはじめた。癇癪のこと、姉の事故のこと、その娘を預けられたこと。そして、あの日観鈴に自分から離れるように言われたこと。
漸治は口をはさむこともなく、ただじっとその言葉に耳を傾け続けていた。
「それでも、結局のとこうちの愛情が足りんかったってことやけどな」
そして最後に、道化のように笑う。
「…晴子って言ったな」
「うん? なんや改まって」
「お前は俺によく似ているよ。いつまでも後悔を引きずって、そこから一歩も前に進めないでいる」
「何が言いたいん?」
「さっき、人を殺したことがあるかと聞いていたな。確かに、お前の言うとおり俺は自らの手で妻を殺した。元々病弱なやつでな、家が火事になったときに、あいつにはそこから逃げるだけの体力がなかった。四方から炎があがり、波のように荒れ狂いながら周囲を焼け跡へと変えていく。あいつにはもう歩く力すらなくて、背負って逃げるだけの時間もなくて、助けたかった…けれど、助けられなかった」
両腕を見つめる。全てを包み込むことができるほど大きな手。守れると、そう信じていたのに……何よりも守りたかったものは、…風のように身体をすり抜けて行ってしまって……。
「せめて楽に死にたいって、だから俺は、あいつを……殺した。『ありがとう』なんて律儀に礼までいいやがって……最後まで自分勝手な女だったよ。わがままで自分勝手なくせに、誰よりも他人思いな、俺なんかには勿体ないくらいいい女だった。そして、俺は今でもその死を引きずっている。いまさらどうすることもできないことは、分かっているのにな……」
「…だから何や? 過ぎたことは忘れて生きろとでもいいたいんか?」
「そこまでは言わないさ、だが悩んでいても何も始まらないだろ。観鈴という娘を大事に思っているのなら、どうすれば自分にとってもその子にとっても最善のことになるかを考えればいい。そうじゃないのか?」
「はぁ、ずいぶん好き放題いってくれるんやな」
いつだっただろう……前にもこれと同じようなことがあったような気がする。自分勝手に、こちらの事情なんて何も知らないくせに、馬鹿みたいに協力できることはないかと騒ぎ立てる。…そうだ、思い出した。あれは、あの国崎という居候から観鈴が倒れていると聞いたときのこと。
あの日もうちは酒を飲んでかえった。泥酔でもしていなければ、癇癪を起こした観鈴と素直に向き合える自身がなかったから……。けれど、あいつはそんなうちを母親と呼び、そして一括した。
「…うちなんかに……甘えたいわけあらへん、うちほんまの親やないから」
「そんなの関係ないだろ。あいつにとっての親は、あの日からあんたひとりだけなんだ。自覚しろ、あんたが観鈴のただひとりの母親なんだよ」
ただひとりの母親。けれど、うちと観鈴はどこまで行っても他人同士にしかなれない。橘に預かってくれと頼まれて、だからそうしているだけ。だから、いつ観鈴を橘が引き取りにきてもいいように、一人になっても寂しく感じないようにと、観鈴とはなるべく一緒にいないようにしてきた。
それでもあの子は、観鈴はお母さんと呼んでくれた。こんなどうしようもないうちを、お母さんと、母と呼んでくれたのだ。だけどその言葉は重すぎて、産みの親でもなく、一緒にいることすらできない自分が背負うには、その響きはあまりに重すぎて、その言葉を、自身で認めることができなくて……だから、
「なんや、ずいぶんと偉そうやな?」
だから結局……。
「うちはな、二十歳にすらなってへん小娘やった。そんなころに、今日からあなたがこの子の母親ですなんて、いきなり幼い子どもを押しつけられたんや。
その気持ちが、その重みが、あんたに分かるんか? うちが望んだわけでもないのに、ある日いきなりこの子はあなたの娘ですって、幼い子どもを預けられた気持ちが、あんたに分かるんかっ!!」
他人を攻撃することで、自分にとって都合の悪いことを押し潰すことしかできない。
「………」
「ほれみろ何も言われへん。結局それや。あんたに人を説教する資格なんてない。よそ様の事情に土足で足を踏み入れて、わずかの知識で全てを理解した気持ちになって、偉そうに説教をたれる。あんたのやってることは、ようするにそういうことや。ああー、なんか気分悪うなってもうた、飲も」
そう言ってやると、居候は逃げるように部屋から出て行った。打ち負かした。けれど、湧き上がってくるものは虚しさばかり。心にぽっかりと空洞が出来てしまったような、そんな感覚に陥る。うちは……何がしたいのだろう。こんな口喧嘩で勝っても何も変わりはしない。むしろ、観鈴から遠ざかっていくだけなのに……。
寿司をつつく。いつもどおり美味い寿司のはずなのに、全く味がしない。舌の感覚が麻痺している。
「なんで、なんでうち寿司食ってんのや……」
ハシが止まる。
「あの子、今、体の具合悪ぅしてるいうのに……うちはひとりで寿司食っとるんかいな……。あほや……うち、あほやないか……なんや、うちて……こんな奴、おらんほうがマシやん……誕生日にプレゼントもあげれんで……ずっと、あの子になんもあげられんで……寝込んでても、そばにいてもあげられんかって……それで、何年暮らしてきとるんや……いつおらんようになってしまうかわからんこと怯えて、どれだけ過ごしてきるんや……いつまでこんな生活続けなあかんのや……あいつの言う通りや……実の親やないからとか……そんなん関係あらへん……うちがあの子といたいだけや……一緒に、いたいだけや……」
考えて、そしてどうすればいいか。そんなことは最初から分かっていた。部屋を出ると、晴子はまっすぐにある場所を目指した。ぎぃっと木目の床の振動を感じながら歩き続けていくと、やがて目的の場所、観鈴の部屋にたどり着く。
「入るで」
中に入ると、くぅくぅと吐息を立てて観鈴が眠っていた。幸せそうな寝顔。ずっとこのまま見ていたい。そんな風に思うほどに、その寝顔は愛おしかった。
「観鈴、観鈴。うちや、お母さんやで」
「…うん。おかあさん?」
寝ぼけた声で言う。
「そや、おかあさんや」
『自覚しろ、あんたが観鈴のただひとりの母親なんだよ』
ああ、自覚したる。うちがただひとりの、世界中でただひとりの観鈴の母親なんや。
「おかあさんは……いないよ」
「なっ!?」
瞬間、晴子の中の世界が、その色を豹変させる。
「…み、観鈴。なにいうてんのや!」
まだ意識がもうろうとしていそうな観鈴。その肩を、晴子が狂ったようにぎゅっと掴む。
「…だめ……だよ……往人さん。晴子……おばさんに、もう迷惑かけれないよ……本当のお母さんでもないのに……」
瞬間、頭の中が真っ白になった。急に腕から力が抜け落ちて、自然と観鈴の体がベッドに横になる。その振動で目が覚めたのか、はっとなって起きあがると、観鈴は晴子と向かい合うように座りこむ。
「観鈴…いまの……」
「ごめんなさい……お母さん、ううん晴子さん」
寝ぼけていたとはいえ記憶には残っているのだろう。その瞳は、悲しみを帯びた藍に曇っていた。
「そうだ、晴子さん最近働きづめだし気分転換に旅行とかどうかな? 温泉旅行。この前よさそうな温泉がパンフレットに書いてあるの見つけたんだ。でもお酒代でそんなお金残ってないかな? あ、わたしのお金足せば大丈夫だよね。うん、いい考え。これで疲れもばっちり解消。そうと決まれば急いだほうがいいよね。膳は急げって言うし。わたしいま動けないから荷造り手伝えないけど、言ってくれればどこに何があるかすぐに教えられるから、なにか困ったことがあったらすぐに言ってね」
なんや……やっぱりうちは邪魔者なんか……それとも、病気やから迷惑かけんように治るまで出て行かせるつもりなんか。そんなんちゃうやろ、病気なら甘えて、もっとうちに甘えてくれてもええやん。おかゆ作って一緒に遊んで、そうやって甘えてくれればええやん。なんやの……実の親とか親じゃないとか、そんなんでここまで気いつかうん? 旅行なんて行ってもうちは嬉しない。うちが、うちがほんまにしたいことは……。
「なぁ……」
長い考えをめぐらせ続け、そして晴子は答えを導きだす。
「もう、うち怯えたない……もう、こんな不安な気持ちのまんま、生きてたない。あの子にプレゼントあげて、喜ぶ顔見てたい。あの子が苦しんでたらそばにいて、励ましてやりたい……せやから決めた」
立ちあがり拳を顔の前で握りしめると、力強く宣言する。
「あの子、うちの子にする。それで安心して生きる。あの子と生きるんや。橘の家に行ったる。乗りこんでいって、談判してきたる。あの子をほんまのうちの子にするまで、何日でも居座ったる。それでええやろ。それがうちらしいやんな」
「そうか……」
苦笑いして漸治が呟く。
「なんや、何かいいたげやな」
「ん、いや……何でもないさ。ただその強引なところが似ていると思ってな」
「似てる? だれにや」
「娘に、ちょっとだけだけどな。十五、六の頃に家出されて、そいつとはそれっきりになっているが」
「ふうん。なんていう名前なんや」
「名前は――」
。それが俺の母さんの名前。
離れない…離れたくない。だから、一緒にいる。そう決めたから。
それが、国崎往人が辿り着いた答え。二人で一緒にいる。それこそが彼にとっての幸せ。他には誰もいない。そこにいるのは、二人の男女だけ。
外界から完全に遮断された世界。そのなかに、国崎往人はいた。
「観鈴。でな、それで俺は金が尽きて子供にアイスを――」
自分の不幸話をさもおもしろおかしく作り変え観鈴に伝えていく。その姿は、まるでこっけいな道化のようにも見える。眠ったまま、吐息だけを返事代わりに返してくるベッドの上の少女に、往人はとても楽しげに喋りかけていた。
少女は死んでしまったように眠り続ける。それでも、往人の一人語りは止まらない。いつまでも、それは続いていく。
(往人)
突然脳に聞こえてきた言葉に、往人は思わず観鈴との『会話』を止め、その声に耳を傾ける。それは忘れることもない、自分の目の前で光となって消えてしまった、懐かしい母の声だった。
「まさか、生きてたのか…?」
(ううん違う。肉体はすでに消滅しているから、今の私は厳密には幽霊とか亡霊とか、そんなふうに思ってくれていいわ)
「そんなこと…」
(信じられない? でも、私はいま現実にあなたとこうして会話しているわ。理解できなくても、それでも受け入れるしかないことだってあるのよ)
「…それで、死んだはずの母さんが今更なんのようなんだ?」
(あなたを止めにきたの)
「止める? なにを」
(いまあなたがやっていること。神尾観鈴ちゃんのそばにいるのに、何もできないでいる今を止めに)
「…なんで?」
(このままを続けていたら、みんな不幸になってしまうから。分かるでしょ、全てを思い出した今なら、これがどんな結果を招くのか)
『そして、最後の夢を見終わった朝……女の子は死んでしまうの』
母の言葉が脳裏を横切る。けれど……それでも……。
「…それでも、それでもいい。俺は観鈴のそばにずっと居続けることを選んだんだから」
往人がそう言い放つと、母の声はそこで一度止まる。その沈黙は、なにかを考えこんでいるようにも思えた。やがて、深刻そうな口調で言葉は再開される。
(…往人。あなたのやっていることは私と同じなの。あなたには自分の意思で道を決めて欲しいと言った。けれど、それが神尾観鈴ちゃんを殺す結果になるとしたら、私にはそれを止める義務がある。それが、逃げ出した私に与えられた、責任なのだから)
「あんたに、観鈴の何が分かるって言うんだっ!!」
暗闇に向けて往人は吼える。
「こいつは、こいつはずっと一人ぼっちだった。誰よりも友達を、家族を欲していた! 俺はそれを知っていたのに、誰よりも観鈴の近くにいたのに……」
頭に流れ続けてくる言葉。けれど、どこにも見えない声の主。ただ闇雲に、空っぽの空間に声を投げかける。
「だから俺は観鈴のそばにいると決めた。それが観鈴にとっても、俺にとっても、最善なことなんだよっ!!」
(…仕方ない……か)
「なっ!」
瞬間、目の前に信じられない光景が広がった。部屋の隅に腰掛けさせておいた人形。それが力強く光を放ちはじめる。そして、閃光。
あまりの眩しさに、思わず瞳を閉じる。真っ暗だったまぶたの下の光景が、すっと青い空の景色に変わる。
(往人、今から見せてあげる。私の記憶。その全てを)