Past 第二幕 痕跡
見知らぬホテル。見知らぬ部屋。ソファーの上には財布から飛びだした小銭が散らばり、部屋の隅に置かれたバックの口から、着替えと気休め程度の化粧品が見え隠れしている。ベッドから両足だけを地面にたらした姿勢のまま、彼女は、どこか遠くを見つめているように見えた。ここではないどこか。
となりには、緑色のぬいぐるみが転がっている。布製の小さなぬいぐるみ。観鈴が好きな、恐竜のぬいぐるみだった。
ここに宿泊しはじめて数日が経過したが、女性、神尾晴子にとって未だにそこは『見知らぬ』場所でしかなかった。部屋の間取り図もまだ満足に把握していない。把握する気もなかった。
ぱんっ。
窓の外では、色彩を失った大空に綺麗な花火が舞っている。真っ黒な闇夜に咲き乱れる、赤、青、黄。けれど、そんな光景を見ても彼女は何も感じることはない。虚ろな瞳、その目に映るもの全てを拒絶しているかのような、そんな瞳をしていた。
もう何本目の酒瓶の蓋を開いただろう。空瓶が部屋の中を彩っていく。なのに、それでも酔うことはできない。ただ時間を埋めるためだけに、アルコールを飲み続ける。何をする気にもなれない。胸に大きな風穴が開いてしまったかのように、晴子の心は空っぽだった。
晴子と観鈴の間に、大きな溝があったことは事実だろう。その溝があったからこそ、二人は癇癪を気にすることなく、共に暮らすことができた。
けれど……それだけだ。
アパートで暮らす住人同士と同じ、知り合いであるだけ。毎日顔を合わせて適当な挨拶を交わすだけの関係。親子などとはとても呼べない代物。
それが、二人の関係だった。
それでも、少なくとも晴子は、自分の気持ちが通じていると思っていた。
いや、そう信じていたかった。信じて、ずっと暮らしてきた。
「けど、そうやなかったんやな」
窓の外を眺めると、月明かりが小さな公園の滑り台に反射していた。
そういえば、観鈴がまだ七歳くらいのころだったろうか。夜遅くまで、観鈴に近所の公園につき合わされたことがあった。あの頃は、観鈴の言動一つ一つが可愛くて、ずっと見ていたくて、それで仕事に遅れることも度々あった。
それがある日突然泣き出して、理由を聞いてもずっとわんわん言うばかりで、もう訳が分からなくなって、そのうちにそうなる原因が自分にあることを知って、だから常に距離を保つようにして、それからもう十年……。
偽りの関係はある日突然崩壊した。残るものは何もない。あの頃と同じ、観鈴を預けられる前の、繰り返しの仕事を機械的にこなしていたあの頃と。
毎日くたくたになるまで働いて、眠るためだけに家に戻る。ほんで起きたらまた仕事。そんなことの繰り返し。何のために仕事をしているかなんて、そんなこと考えたこともなかったなぁ。
たしかそんな頃やったっけ、姉貴が事故死したとか聞いたのは。次の日慌てて仕事に休みもらて、超特急で実家の近くの葬式会場まで走らされたんやったな。えらい静かな会場やったわ。みんな一言も喋らへん。あれじゃ誰が死体かよう分からんわ。ああ、そや。真っ黒な花に包まれた棺桶の中に、姉貴が眠っとるって親戚のおばちゃんがゆうとったな。あれ、真っ赤やったっけ? それとも白やったかな? よう覚えとらんわ。観鈴が生まれたときにお祝いに行って、姉貴とはそれ以来の再会やったな。
棺桶目の前にしても、涙なんか出えへんかったわ。悲し思っても、なんや実感することができへんかった。元々姉貴との関係もそんないいもんでもないし、ここ数年は電話すらした覚えもなかったけ。そんなせいで、その死を自分と結びつけることがどうしてもできへんかった。別に姉貴がいてもいなくても、うちの生活はなんも変わらへんかったわけやしな。
『この子を預かってくれ』
、姉貴の夫がうちの家に来たのは、葬式から一週間くらいあとやっけ。典型的な優男で、うちはあんま好きなタイプやなかったな。敬介の腰の辺り、えらいちっこい子が抱きついとった。まさかその子、観鈴をうちが育てることになるなんて、その時まで夢にも思わへんかったわ。観鈴、よう覚えとる。姉貴の家に行ったときに、布団の上でわんわん泣いとった赤ん坊や。やかましいから黙らせよ思って指口に入れたったら、腹減っとったんかその指ちゅーちゅー吸いよったけ。なんかその姿がえらい可愛い思えたわ。
その子をいきなり預かってくれやっけ?
ずいぶん調子いいでほんま。嫌や言い続けたのにな、あんましつこいからついに折れてまって。ま、これも運命やとか意味わからんこと思って、無理やり自分納得させたっけな。
けど、それでうちは変われた。家に帰ると明かりがついてて、ちっこい子供が「おかえり」言うて出迎えてくれる。ただそんだけのことやのに、なんやそれがごっつ嬉しかったな。仕事をする意味が出来て、生きがいが出来て、バリバリ働くようになって。
…そんなあの子がもう高校生か、月日の経つのは早いもんやで。
うちは観鈴を自分の娘や思っとったんやけど、あの子もうちのことお母さん言うてくれて、気持ち通じ合っとるって、信じてたんやけどな……。
「…結局、うちは観鈴の何やったんやろ。単なる叔母か、それとも同居人やったんかな」
自嘲する。居候、国崎往人に『観鈴のことはわかっとるつもりや』なんて偉そうに言っておきながら、結局自分は娘に家を追い出されてこの有様。しょせん、全ては自分の独りよがりだったのだろうか。
部屋の中が妙に広く感じる。自分だけが浮いているような……、神尾晴子を必要とする人なんて、最初からどこにもいなかったのだろうか……。
そんなことを考えていると、衝動的に強烈な吐き気が湧きあがり、慌てて洗面台へと走る。一通り出し終え、ふと備え付けられた鏡を覗きこむと、げっそりと痩せ細った女の顔が映っていた。
誰や……。
一瞬そんなことを考えるが、すぐにそれが自分の姿だと思い出す。まるで病人のような青白い肌の女。頬はげっそりと痩せ細り、焦点の定まっていない二つの瞳が、鏡に反射されていた。
思わずそれに拳を叩きつける。けれど力はこもらず、こんっ、と情けない音をたてるだけ。
「なんやよ……なんで……うちは……」
リビングに戻っても、結局気分は回復しないままだった。ベッドに横になって寝ようと思ったが、ひどい頭痛に襲われている今は、満足に眠ることすらできそうになかった。
頭の中がひどくうねる。殴られたような痛みが狂ったように暴れまわっている。そんな感じ。
少しはましになるだろうと水道水をコップに注ぎ一気に飲みほすと、浴槽の電気をつけ中に入る。蛇口を捻ると冷たい水が指先にふれる。レバーを捻って水の温度をお湯まで上昇させる。指先にあたる水がだんだんと温かくなっていく。体温ほどまで温まったところでシャワーに切り替え、そこで一度浴槽から出る。
Tシャツを脱ぐと少し汗臭い。そういえば、このホテルに来てから一度も着替えていなかったことに気づく。晴子はそれをズボンや下着と一緒に、洗濯物を入れるための赤いかごに放り込むと、再び浴槽に戻る。
改めてレバーを捻りなおしてみると、程よい温度で雨のように、シャワーが身体に降り注いでくる。頬を伝い、首筋から腰へと、数日分の汚れをお湯が綺麗に洗い流していく。
もういい、観鈴と自分との関係は所詮うわべだったのだ。忘れよう。全て汚れと一緒に取り除いてしまおう。そうすれば、この苦しみからも解放されるだろう。
そんな考えを必死で巡らせようとするのに、どうしてだろう、観鈴との思い出ばかりが留まることを知らず、後から後から湯気のように胸の奥底から湧きあがってくる。
『お母さん』
記憶の中に根付いた言葉。誰の声だろう?
ああそうだ。この言葉、観鈴がうちのことをそう呼んでくれていた。
…でも、それは神尾観鈴?
…それとも、橘観鈴?
あの娘は、どちらの娘なのだろう。
髪の毛を伝って、水滴が足元にぽたぽたと雫となって落ちていく。雫はタイルを伝って排水溝へと流れていき、また新たな水滴が足元にたれる。その繰り返し。やがてその音も消え、髪からたれ続けていた雫もなくなった。
けれど、濡れた髪。未だ続く波紋。そのものが無くなっても、痕跡は残る。
観鈴を忘れようとしても、彼女と暮らしていた痕跡は身体の中に残り続ける。無くなることなどない。
…忘れるなんて、そんなことは最初から無理な話だった。
いったいどこに向かえばいいのだろう……出口のない迷宮に迷いこんだような、そんな気分。観鈴を愛しく思う自分。観鈴に追い出された自分。結局はどちらも同じ自分なのだ。
導き出せない答え。それでも、時間だけは無情に流れ続けていく。
浴槽を出る。まだ酒が体に残っているのか、少しふらつく。夜風にでも当たって酔いを醒ましてしまおう。そう思い服を着なおすと、晴子は一人ホテルを後にした。
蓮鹿と小百合が立ち去った屋上。
地面に真っ赤な染みを広げた男が立ちあがる。
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。まわりを見回してみても、変わったことといえば、せいぜい花火が鳴り止んでいることぐらいだった。
傷口に触れる。ばっさりと切られ、胸からとめどなく流れ続けていたはずの出血は止まり、赤紫の薄いかさぶたの膜ができ始めていた。それでも、血液が不足しているせいか未だ意識はもうろうとし、その足取りは重い。
ふらふらと扉に手を当てそれをひねる。金属の重さは今の体力では少々手に余る重量。体重をかけて強く押しこむと、ぎぃっと鈍い音を立ててそれが開き、暗い螺旋階段が目の前に広がる。
まるで奈落への入り口のようだ。降りていくたびに、更なる深みへと入り込んでいくような……。
漸冶は持たれかかるように手すりに肘を当てると、一歩一歩足元を確認しながら階段を下っていく。
紗衣、だったか……あの子どもの名前は。
あの時、蓮鹿に切られ意識を失うほんのわずか前の一瞬。
あの子どもは確かに言ったのだ。『人殺し』っと。
わずか五文字、たったそれだけの言葉。それなのにその微弱なささやきは、心の奥底に眠る記憶を、研ぎ澄まされた刃のように強くつつく。忘れようのない現実。逃れることのできない現実。
身体中に模様のように付着した血痕。きっと今の自分の姿は、十七年前のあの時とよく似ているだろう。そんなことを考えると、突如掻きむしるような苦しみが生まれ、全身を襲う。
結局自らの手で妻を殺したという事実は、どうあがいても変わることはない。
それを思うと、手すりを掴む腕に自然に力がこもる。脳裏に浮かぶのは、鮮血の中で呆然とたたずむ自分の姿。
ぎゅっと、きつく舌をかみ締める。いっそこのまま舌を噛みきって死ぬことができるならば、どれだけ楽だろうか。妻を殺しておきながら、のうのうと生き続けている自分。…本来ならば残るべきはあいつのほうだったんだ。それを、俺なんかのためにみすみす命を投げ出して……。
漸治は真っ赤に染まったガウンの内ポケットに手をつっこむと、中から小さな紙切れを取りだす。ずいぶん古い紙のようで、黄色く変色したその表面は、所々虫に食われたようになっている。
どうやら地図らしく、色々と細かい文字が書き記されているようであった。
『翼人伝』その書の終わり、そこにこの地図は挟まれていた。
何故奴らが翼人の存在を知り、それを求めるのかは分からない。だが、それと同時に奴らは確実に厄災をばら撒いている。
高みに立って余裕のつもりか……俺はどこまででもお前たちを追い続ける。
…たとえそれが、地の果てであろうとも。
螺旋の階段が終わり、夜の街並みに視界がきり変わる。さすがに血のりの付いたガウンは脱いでおくことにした。人目について騒がれると面倒だ。
冷たい風が背筋を通りすぎ、寒さで少し肩が震える。夏とはいえ、やはり深夜ともなるとかなり冷えこむようだ。どこか暖かいところはないかと軽くあたりを見回してみると、一軒の酒屋が目に止まった。
店内に入ったその瞬間、ぶわっと充満した酒の匂いが鼻をさす。だが、それもすぐに慣れる。思ったとおり中は温かく、ここなら凍えるような心配はないだろう。
カウンターに座ると、漸治は手早くウイスキーを注文する。
腰のポーチから乾いた布を取り出し、腕に付着した血痕をできるかぎり拭きとっていく。そんな作業をしていると、程なくして透明なグラスと茶色いビンが出てくる。注文したものが提供されてきたようだ。
店内に流れるクラシックミュージックを楽しみながら、グラスをまわして香りを楽しみ、そして勢いよく飲み干す。血液が足りない分はアルコールで補充。今は酒を楽しむことにしよう。大丈夫、まだ時間はある。奴らが人形を見つけたとしても、この地図がなければどうすることもできない。
蓮鹿たちの情報を調べていくうち、その目的が少しずつ分かりかけてきた。未だ最終的な目的は不明だが、人形と地図そして翼人。奴らがこれらを探していることは間違いないだろう。
仮に蓮鹿たちが人形を手にし翼人を見つけたとしても、この地図を手に入れるためには、どうしても俺と再び接触する必要がある。
しかし、人形か。………お前は今どこにいる?
考えることが多すぎる。今夜も酔えそうになかった。
「早くその席を空けろっ」
突如、罵声をかける男の声が店内にひどく響いた。何事かと声のほうへと振り返ってみると、女が座っているテーブルの前に三十歳ほどの男が一人。
「カウンター見てみい、いくらでも空いとるやろ。あんたは、そっちに座ればええやん」
確かに女の言うとおり、カウンターはがらんと空席が目立つ。だが、殺気立った男がそんな話に聞く耳を持つようなこともなく、
「うるせえ、こっちは肉体労働で疲れてんだ。さっさとそこを空けろ」
なお引き下がることなく、男は強い口調で言い放つ。そんな姿を、まるで虫でも見るかのように冷めた視線で、見下すように女は観察していた。透明なグラスをくるくると揺らし、中の液体を回転させる。
「晴子や、神尾晴子。人の名前も言えんような奴の言うこと、大人しい聞きたない」
ため息まじりに言う。それが引き金。
「このっ!」
逆上した男は晴子と名乗った女に殴りかかろうと、肘を後ろに下げる。だが、それまでだった。後ろに下げた腕は突如ぴくりとも動かなくなる。
「なんだよっ」
怒り狂ったような声で男が振り向くと、その腕の先には漸治の姿。何も言わず、ただ振り上げようとした男の拳を握り締めている。
「もめごとなら他所でやってくれ。他の客の迷惑になる」
マスターが口を挟む。大して興味もなさそうだ。
「そや、あんたには関係ない」
「勘違いするな。静かに酒を飲みたいだけだ」
本心だった。正義の味方を気どるほどお人よしでもない。ただ、目障りに感じただけ。握っている腕に力をこめると、男の腕がみしみしと悲鳴を上げていく。
「静かにするよな」
子供をあやすような声のその裏に、凶暴な気配が見え隠れ。
男は「ちっ」と、面白くなさそうに舌打ちすると、そのまま逃げるように入り口の扉を開き、店から走り去っていく。
漸治は席に戻ると金をそこに置き、まだ中身の残っていたウイスキーをボトルごと飲みほす。
「邪魔したな」
それだけ言うと店を出る。
ぽかぁんと、妙に静まりかえる店内。マスターのきゅっきゅっというグラスを磨く音だけが、やけに大きく響いていた。
「あんた、助けてもらったのなら礼の一つでも言いにいったらどうだ?」
「ああ、そやな」
退屈そうにグラスを見つめていた晴子は、マスターのひとり言のような呟きを聞くと面倒そうに立ち上がる。
「いくらや?」
財布を片手に会計に向かい、マスターと簡単な応対を行う。
「ほなら邪魔したな」
再び静かになった店内。マスターは一通りグラスを磨き終えると、窓越しに見える空を眺める。
曇ったガラスの向こうで、青白い月が輝き続けていた。