Feather 終幕 幸せな記憶

 

 和樹と美凪とみちると。

三人は日が暮れるまでシャボン玉を飛ばして遊んでいた。

「もっと優しく吹いてあげて」

「んにゅ、やさしく?」

 どうしてもシャボン玉をうまく飛ばせないみちるに、美凪が上手く飛ばすためのコツを教えてあげていた。和樹は少し離れた場所で、二人を見守っていた。

「ふうーって」

「ふぅー」

「お?」

 ぽわん……。

 ストローの先から虹色のシャボンが一つ飛び出した。シャボン玉はふわふわと空に向かって舞い上がっていく。

「できた! 美凪できたよ! シャボン玉飛んだよっ!!」

 興奮しながら大はしゃぎするみちる。

「うん、できたね」

 それを見て、美凪も満足そうに微笑んでいた。

 みちるの作り出したシャボン玉は、三人が見ている中、ゆっくりと空へと浮かんでいった。光と戯れるように、七色にその姿を変えながら、どこまでも飛んでいきそうなシャボン玉。

 ふわふわと……ふわふわと……、一つの夢が空に還るように……。

空を舞うシャボン玉が赤く色つき始めた頃、沈もうとしている太陽がみちるの瞳にうつる。

「あっ……」

「どうした? シャボン玉はもう疲れたか?」

「…そろそろ時間かな……」

「えっ?」

「今日は楽しかったね」

 みちるは笑顔で言った。

 その言葉の意味に、すぐに気づくことはできなかった。いや、本当は認めたくなかっただけなのかもしれない。それに気づけば、幸せそうなみちるのその笑顔が壊れてしまうことを、知っていたから……。

「…ほんとに楽しかったよ」

 みちるはそう言ってストローに口を寄せると、シャボン玉を一つだけ作る。大きなシャボン玉を一つ。

やがて、大きなシャボン玉がストローからはなれ、空に向かった。それに続いて、中くらいのシャボン玉と小さなシャボン玉を一つずつ。

和樹と美凪が見守る中、静かに、ゆっくりと空へとのぼっていく。三人の姿を象ったような三つのシャボン玉が、空へと。

「星、またみんなで見たかったよ」

 そして、その笑顔が消える。

 辺りを見回してみても、もうみちるの姿はどこにもなかった。まるで初めからそこには何もなかったように、夜気を匂わす風が静かに通り過ぎる。

 空を舞っていたシャボン玉はもう一つもない。

「…みちる」

 美凪が名前を呼ぶ。けれど、それに応える者はいない。

「みちる!」

 悲鳴に似た声が辺りに響いた。

「そんな…さよならもしないで…」

「…うそだろ」

 夢の終わりはあまりにも唐突。まるで、この別れこそが夢なのではないかと思うほどに。でもみちるが姿を消してしまったのは紛れもない事実で、くたびれた色の駅のその前に、いつも三人でいたその場所に、今は二人しかいないことが、何よりもそれを物語っていた。

「まだよっ!」

 それは、和樹の声でも美凪の声でもなかった。

 二人は驚いて声のほうへと振り向く。

「まだ時間はあるわ。今ならまだ間に合うから、だから、行ってあげて」

 みちると同じくらいの年齢の少女。

いつの間にか、商店街へ続く道の真ん中に、そんな子供が立っていた。

「おまえは……」

 突然に現れた幼い少女に、和樹は見覚えがあった。いつだったか美凪がいなくなってしまったとき、美凪の居場所を教えてくれた少女。

「…行くって……どこへ行けって言うんですか……」

 泣きそうな顔でみちるの姿を求め辺りを見回していた美凪が、力もなく声を漏らす。もう手遅れだと、諦めてしまっているような声だった。

「空に最も近い場所。手を伸ばせば、空に手が届きそうな場所。そこに、みちるはいるから……だから、行ってあげて」

「…空に近い……屋上か!」

 和樹が言って、少女は頷く。

「行くぞっ」

 和樹は美凪の手を引き走り出す。刻一刻と迫りつつある夕闇に背を向けて。

 

 

 沈もうとする夕陽が背中をおして、和樹と美凪は走り続けていた。

 夜のがおりるまで、あとどのくらい時間が残っているのだろう。

 正直なところ、みちるが屋上にいるかどうかなんて分からない。けれど、和樹にとって、美凪にとって、そしてみちるにとってあそこは思い出の場所だった。だから、あそこにいると信じていた。

 でも……間に合うんだろうか。

 ぽっかりと空いた和樹の胸の穴には、様々な不安が流れ込んでいっていた。決して醒めない夢の中にいることが出来たら、もしかしたら、人は悲しむことなんてなくなるのかもしれない。でも、俺たちは前に進まないといけないから、だから走った。夢の終わりを受け入れるために。

 鉄製の扉を勢いよく開けて屋上に躍り出る。

世界は悲しい赤色に染まっていた。空も、フェンスも、床も椅子も……。

 沈みゆく夕陽を背に受けて、彼女はいた。

フェンスの向こうでこちらを見ている。悲しさや寂しさや辛さ。…憂いに満ちた深い色をした瞳で……手を伸ばせば、そのまま消えていきそうな瞳で……。

 いつも頭の上でくくっていた髪はとかれ、風になびいていた。その姿は、どこか美凪の面影を思わせる。

 和樹たちと目が合うと、かすかにみちるは微笑んだ。

「みちるっ!」

 とたん、美凪が悲鳴じみた声を上げる。

「危ないから、そんなところにいたら危ないから……こっちにおいで」

 ゆっくりと、首を横に振る。

「だめだよ。もういかなきゃならないから」

 瞳の憂いが増す。でもどこか優しくて、満足そうだった。だからこそ……余計に切ない。これから迎えるのは、紛れもない別れ。

変わることのない、夢の終わり……。

「…今日までたくさん楽しかったから」

 風が吹き、髪がなびく。みちるの唇が震える。

「いっぱい楽しかったから……だから、もういかないとだめなんだよ」

「今日までじゃない! 明日も楽しいから!」

 みちるの声をさえぎるように、美凪が叫ぶ。

「明後日も! その次の日も! ずっと楽しくなるから! だから、だから……」

「…ごめん、美凪。でも……もうだめなんだよ」

 和樹の背中に、美凪の背中に、痛みが生まれた。焼けるような、焦げるような痛み。二人はたまらずその場に倒れこむ。

「こ……れは……」

 身に覚えのない痛み、それなのに、懐かしさを彷彿させる痛み。やがて、それは煙のようにすぅーっと二人の体から消える。

「みちる……?」

 背中を押さえながら、美凪は自分に、和樹に何が起きたのか、その理由をみちるに尋ねる。

「…終わりがきたの。和樹や美凪に掛かるはずだった呪いを、今までずっと、代わりに受け止めてくれた人がいた。でもそれも限界になったから、和樹や美凪に、痛みが降り注ぐように……」

「みちる、あなたいったい……」

「みちるはみちるだよ」

 そう言って、笑う。

「………」

 関係なかった。みちるが何であろうと、かけがえのない友達であることには、何の関係もなかった。だから美凪も、それ以上は何も言わなかった。

「…みちる……」

 フェンスの向こう側で、少女は満足そうに微笑んだ。

「…美凪、たくさん笑えたよね。みちるはね、美凪の笑顔を見るのが一番うれしかったんだよ。たくさん、色んなことがあったよね。たくさん、遊んだよね。ねぇ、美凪はおぼえてる? 最初にみちるがシャボン玉をしたときのこと。おもいっきり石鹸水を吸っちゃって、とんでもなかったよね。苦しくてケホケホいってたら美凪すごく慌ててさ、泣きそうな顔で、「大丈夫?」って何度も何度も訊いてきたよね」

「…うん」

「初めて一緒に星を見たときは、たくさん色んなことを教えてくれたね。すっごい楽しかったよ」

「あれは全部、お父さんから教えて貰ったことだから……」

「それでも、みちるに教えてくれたのは美凪だよ。美凪がいなかったら、みちるはお星様のことなんて、何も知らないままだった」

 静かに始まった、二人の思い出。二人だけの物語が、切なく紐解かれていく。

 楽しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと。時には喧嘩して、そして仲直りをして、笑いあう。どれも二人でしてきたこと……。

 二人の足跡、大切な思い出……。

「…私はみちるのお陰で、私でいられた」

 落ち着きを取り戻し、美凪は寂しそうな声で言った。

 母親に忘れられた幼い頃。『みちる』として笑わなければならなかった家庭。悲しくても苦しくても……そこは、唯一の帰る場所。

 しかし『みちる』と出逢うことで、『美凪』でいることができた。『美凪』として笑うことができた。忘れてしまった笑顔を……『美凪』の笑顔を取り戻すことが出来た。

「…でも、私はみちるに何をしてあげられたのかな……」

 美凪の目には、涙が浮かんでいた。

「美凪はみちるに、大事なものをたくさんくれたよ。美凪はみちるに、たくさん笑ってくれたよ。みちるは、美凪の笑ってる顔好きだよ。美凪の笑ってる顔を見ると、心があったかくなるもん」

「私が笑えたのは、みちるがいてくれたから……。いつもみちるの側にいたから、だから笑えたの。みちるがいなくなったら、…私は上手に笑えない。きっとまた、笑えなくなる……」

「そんなことないよ。美凪はちゃんと笑えてる」

「…えっ?」

「高校式の入学式の日、神尾観鈴ちゃんに見せてあげたあの顔。あれは、美凪の笑顔なんだよ。本物の美凪の笑顔なんだよ」

「…でも、私は神尾さんのことを……」

 美凪の言葉をさえぎるように、みちるが声を上げる。

「ねぇ、約束しようよ。三人の約束」

「約束?」

「というより、みちるのお願いかな」

 フェンスの向こうで、にゃははと笑う。

「和樹、美凪。二人は兄妹なんだよね。遠い昔から力を、法術って力を受け継いできた家系の」

「みちる、おまえっ」

 なぜそこまで詳しく俺のことを知っているのか、そう問い詰めようとして、和樹はフェンスに掴みかかると、みちるをじっと見つめた。みちるは和樹がすぐ近くまで来ているにもかかわらず、気にすることもなく、言葉を続けた。

「この空の果てには、翼を持った女の子がいる。その子は遠い空の上で、悲しい夢を見続けている。ずっと待っている。だから早くその子の元に行ってあげて、みちるは一足先にその子のところに戻るから。美凪と和樹にもらった楽しい思い出を持って、その子の所に戻ってるから。みちるは、その子の欠片だから……」

「みちる……」

「それとね、美凪にはもう一つお願いがあるの」

「…もう一つ?」

「そう。美凪は笑っていて。いつも笑っていてね。笑ってばいばいして、そして、そのまま笑い続けて。みちるは、笑ってる美凪が大好きだから」

「…言え……ない……笑ってさよならなんて……言えない……」

「…美凪……」

「だって、もう逢えなくなるんだから……」

「大丈夫だよ。みちるがいなくなっても、夢がさめても、思い出は残るから。思い出があるかぎり、みちるはいつも美凪と一緒だよ」

「………」

「だから笑って。みちるとの思い出を、ずっと楽しい思い出にしていてよ。これは美凪にしかできないことだから……ね、みなぎ」

 黒髪の少女が頷く。ゆっくりと、けれど、確かに頷いた。それは容易な覚悟ではなかっただろう。それでも、彼女は確かに頷いた。

 フェンス越し、背中合わせに空を見上げる二人の少女。

「今、笑ってる……?」

 赤みがかった髪の、幼い少女が言う。

「…うん」

 黒い長髪の、フェンスの内側の少女が応える。

「本当に?」

「…うん」

「じゃあ、笑い続けて……」

「…うん」

「そして、笑ったままばいばいって言って」

 幼い少女の頬を、透明な雫が一粒流れていく。

 二人はとても永いあいだ、お互いに話しかけることをしなかった。声を出してしまえば、相手が気づいてしまうから……笑ったままさよならすると、そう互いに約束したから。

嘘は、つきたくなかったから。

やがて、感情の波が収まるほどの時間が流れたのち……。

「ねぇ、みちるも笑ってる?」

「うん、笑ってる」

「泣いてなんかない?」

「うん、泣いてないよ」

「別れは、辛くない?」

「うん、辛くない。だって……笑ってるもん」

「うん……そうだね」

「笑顔は人の心をあったかくしてくれるから、ずっとずっと笑い続けて、世界がたくさんの笑顔でいっぱいになって、みんながあったかくなって生きていけたらいいね……」

「…うん」

 星が瞬き、世界が眠りにおちていく。

 静かに吹く風が、そっと夢の目覚めをささやきかけてきた。

 手を伸ばしても、もう届かない。抱きしめたくても、ふれることさえ叶わない。

 あまりに切ない夢……。

「みちる、ばいばい」

夜の空に、一つの声が消えた。

 

 

木々をすり抜ける風が、空を目指す鳥たちの背を優しく押しているのが見える。白く雄々しい翼をひろげ、あの鳥たちは、どこへ向かおうとしているのだろう。風だけが知る行ったことのない国まで、この想いを届けてはくれないだろうか。いつかは、誰にでも辿り着くことができるようになるだろう、あの場所まで……。

 屋上で、美凪は一人風を受け続けていた。法術、翼を持つ者、自分がその一族の一人だということ。兄から、母から、様々なことを聞かされていった。

 和樹をはっきりと兄と呼べるようになったのは、みちるがいなくなってしまったあとだった。

出会いの喜びと、別れの寂しさ。その両方を慈しみ、抱きしめていく。

ひとは、変わってゆくことが悲しいのではなく、変わらなければ生きていけないことが、寂しいだけなのだろう。

「行くのか?」

「はい」

「寂しくなるな」

 美凪は、この町を出ることを決めた。みちるとの約束を果たすため。翼を持つ少女を探すため。

 悲しくはなかった。寂しいけれど、悲しくはなかった。

 たとえどんなに離れていようと、別々の道を歩いていくことになろうと、目指す場所は一つだから。いつかは再会することができるから。

「父さんに、よろしくな」

「…父さん?」

「なんだ、なにかおかしいか?」

「いえ、兄さんのことなので、てっきり親父と言うとばかり思っていたので、少し意外で……」

「親父はもういるからな」

「…ふふ、そういえばそうでしたね」

 美凪の手元には、白い封筒に入った手紙があった。実はその手紙が届いたことが、美凪が町を出ることになった直接の理由だった。

 遠い町で見知らぬ女性と結婚した父は、今その町の駅長を務め、娘と妻と三人で暮らしていると、手紙にはそう書いてあった。そして、その娘にあってみないか? っと、続く。

「正直言って妹に会いに行くかどうか、とても迷いました。…でも、会ってみることにします」

「そっか。俺も本当ならついていきたいところだけど、親父とようやく連絡がとれて、もう少ししたらこの町に来るって言ってるんだ。ついていけなくて、悪いな」

「大丈夫ですよ。私はその子のことを、よく知っているんですから。だって、その妹の名前は……」

 

 

 羽根があった。銀色の羽根。それは、最後の羽根。幸せになると、そう願ってやまなかった、少女の欠片。だから、想いは空に届いて……羽根は幸せを手に入れることができた。

けれど、これで全てが終わりをつげたわけではない。

少女は未だ、空に囚われたままなのだから……。

 

 

「…本当にそうすれば観鈴は助かるんだな」

「正確には助かるかも、だな。神尾観鈴を助けることができるかどうかは、けっきょくのところ国崎、お前次第だ」

「俺次第……」

「俺と紗衣は、長いあいだずっとおまえを求めていた。長い夢を終わらせる可能性を秘めたおまえを、ずっと」

 表札に神尾と書かれた家。蓮鹿と紗衣と、そして国崎往人。未だ夢を彷徨い、漂いつづける少女のその傍らに、彼らはいた。

 往人は旅をしてきた。記憶の旅。空の少女、母の託した想い、そして自分自身を知るための旅。

そしてそれを終え……。

「観鈴を助けることができるなら、何だってやるさ」

 前へと踏み出してゆく……。

 

 

 

 

『羽根』は空へと帰っていった。様々な出会いや別れを経験し、幸せな記憶を空の少女に送り届けるために。

 記憶。それは誰にでもある思い出の結晶。

 記憶。それは自己を形成するために必要不可欠なもの。

 記憶。それは過去を持つ者のみが持てるもの。

 往人が何を見たのか、蓮鹿と紗衣はなぜこの家に現れたのか。

その『過去』が、今ゆっくりとベールを捲し上げていく。

Next season Past




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