Feather 第十二幕 陽だまり

 

病院から帰ってきたとき、母のお腹はもう小さくなってしまっていた。幼いながらも、私にはそれが何を意味しているのか理解できた。

そう、妹はどこかにいってしまったのだ。もしかしたら、私が神様にお願い事をしたから、そのせいで妹がいなくなってしまったのかと思うと、とても悲しかった。この悲しみは、憎しみを抱いてしまった私に対する神様の罰だったのかもしれない。

流産という言葉を知ったのは、そのずっと後の話だ。けれど、言葉なんて知らなくても、妹がなくなった事実だけは、私にも容易に理解することができた。

妹がいなくなって、私たち家族の日常は変わっていった。そして、母も……。

「今日の晩ご飯は、みちるちゃんの好きなハンバーグよ」

「この服、みちるちゃんによく似合うと思って買ってきたの」

「みちるちゃん、一緒にお風呂入ろうか」

 母は私のことを『みちる』と呼ぶようになっていた。『みちる』とは、生まれてくる妹のために用意されていた名前だ。

「ちがうよ、おかあさん。みなぎはみなぎだよ」

 何度もそう言ってみたが、母が私を美凪と呼んでくれることはなかった。妹はどこかへ行ったわけじゃない。妹はここにいる。私がみちるになってしまったのだ。では、美凪はどこへ行ってしまったのだろう…。

 父と母はよく喧嘩をするようになった。特に真夜中、私が眠った後に、よく台所から喧嘩をする声が聞こえた。

悲しかった。仲の良かった両親が喧嘩をしていることが、何よりも悲しかった。私は毛布の中で息を殺しながら、窓から見える星の光を見ていた。

怒ったらダメだよ、お父さん。怒らないで一緒に見に行こうよ。お父さんの大好きなお星様を見に行こうよ。今度はお母さんと一緒にむかえにいくから。   

だから、三人で行こうよ……。きれいなお星様をみたら、きっとけんかもしないですむから。前みたいに、ずっと笑っていられるようになるから……。

それからしばらくして、父は家を出ていった。私は母と二人で家に残り、すっかり変わってしまった日常を送るようになった。昔と同じままじゃあ辛いだろうからと、親戚の人たちが家を改築してくれた。

もう父の面影はどこにも残ってはいなかった。どこへ行ったのかもわからない父。てもとに残ったのは、最後にくれた星の砂と、あの羽を持つ少女の絵だけだった。

それでも父の姿を探して、私は毎日のように父が働いていた駅へ行った。日が暮れて、夜空に満天のお星様が輝くまで、私は父を待ち続けた。

 父の同僚だった駅員さんが、そんな私を心配して、なんとか父と連絡をとろうとしてくれたが、無理だった。

「ごめんよ、美凪ちゃん」

 駅員さんは、謝ってくれた。『美凪』と呼んでくれた。

 家に帰ると、私は『みちる』でいなければならなかった。もうこの家に『美凪』はいないのだ。でも、それでも良かった。父がいなくなって悲しむ母が、『みちる』と私を呼ぶときだけは微笑んでくれたので、それでも良かった。

 私は母の笑顔を見るために、『みちる』であり続けようと思った。

 でも……気がつけば、私は笑えなくなっていた。自分の感情を、うまく表に出すことができなくなっていた。そんな日々が、続いていった。

 ある夏の日。時間は幾重にも折り重なって流れていき、私はいつの間にか小学生になっていた。幼いころの友達だったはずの霧島佳乃ちゃんは、最近この町に越してきた、ポニーテールの女の子と遊ぶようになって、次第に私との距離は遠くなっていった。私は口下手で、そのせいで新しいお友達を作ることもできなくて、だからずっと一人。一人きりで辛いと感じることはなかったけど、やはり少し寂しかった。

 もう父には会えないのだとわかっていながらも、私は毎日駅前で時を過ごした。もうおままごとはしない。小学生になったんだし、それに、温かかった昔を思い出すだけだから。私は、一人でずっとシャボン玉を飛ばして遊んだ。ずっと一人で飛ばしていたおかげで、腕前はかなり上達した。

 嬉しかった。いろいろな大きさのシャボン玉を空に向けて飛ばすことは、とても楽しかった。でも、やはり誰かと一緒に飛ばしてみたい…。

そんなある日のことだ。私がいつものように駅前へ向かうと、いつも私が座るベンチの上に、一人の女の子が座っていた。私よりも年下で、とてもかわいい女の子だった。誰かを待っているのだろうか。

近づくことなく見ていると、ずっと長い間一人きり。誰かを待っている様子もなかった。だから、私は意を決して少女に近づき、その隣に座った。

少女は私の登場に少し驚いた様子を見せ、隣に座った私をちらちらと横目でうかがっていた。でも、私は何も言い出すことができなかった。

勇気を振り絞って隣に座ったまではいいが、こういう場合なんと声をかければいいのか、私は知らなかった。

…焦った。重い沈黙が、幼い二人の間を流れた。

でも、この機会を逃してはならない。どうしてそう思ったのか、私はこの少女と、お友達になりたいと思った。

少女の雰囲気が、私にそう思わせた。その感情は、限りなくに近いものだった。後はきっかけ。声をかけるきっかけさえ掴めば、私たちはお友達になれるはずだった。

悩んだ。私は生涯でこれほど悩んだことは他にない。

そして、ひとつの結論を導き出した。

私はおもむろにシャボン玉セットを取り出し、シャボン玉を飛ばして見せた。

「あ……」

 少女が、小さくかわいい声をあげた。成功だった。私は黙って少女にストローを渡した。そして微笑みあった。それだけで十分だった。

「ありがとうっ」

 その時の少女の笑顔を、私は一生忘れないだろう。

それからは、日が暮れるまで少女と二人でシャボン玉を飛ばして遊んだ。かなり不器用なのか、少女は一度としてシャボン玉をうまくふくらますことができなかった。けれどとても楽しそうだった。そして、私も楽しかった。

少女はとても元気で、私はすぐに少女のことを好きになった。

そして別れ際、黄昏の中で私たちは『また明日』と小さな約束を交わした。

「なまえ、おしえてほしいな」

 少女が言った。

「みちるはね、みちるっていうんだよ」

 少女は元気良く自分の名前を言った。それは、とても聞きなれた名前だった。悲しいはずの名前……けれど少女にとてもよく似合う、ステキな名前だと思った。

「…私は……美凪」

 そう名乗った。みちるは目の前にいるのだから、私は美凪でよかった。美凪でいることができた。

 その夜、家の中に変化があった。いつもの場所にかけてあったはずの、あの絵がなくなっていた。私は直感的に思った。

『あの絵の女の子だっ』と。

 あの絵の女の子が、私とお友達になってくれるために現れたんだと思った。しかも、いなくなってしまったはずの妹の名前を持ってである。

 たとえそれが勝手な想像で、夢物語にすぎないとしても、私は嬉しかった。幼い頃から、ずっとあの少女とお友達になりたいと思い続けてきたから、妹と二人で遊びたいと、ずっと願い続けてきたから。

私は、ようやく一人ではなくなったのだ。

その夜は、興奮して眠れなかった。明日は何をして遊ぼうかと、そればかりを考えていた。眠りたくなかった。眠ってしまえば、起きたときにすべてが夢だったということになってしまいそうで、怖かった。

 夢の中にいたかった。覚めない夢を、ずっと見ていたかった。

 ずっと……見ていたかった……。

でも……私は夢から覚めなければならない……。

夢は夢のまま……決して思い出にはなれないから……。

 

 

屋上で、美凪はとても永いあいだ瞳を閉じていた。思い出を振り返っているように見えた。和樹はその永い時が過ぎ去っていくのを、ひたすらに待ち続けた。そして、ようやくに美凪が思い出の旅から舞い戻る。

開いた眼には、もう迷いの表情はなかった。あるのは、一つの強い思いだけ。

「和樹さん。明日、みちるに会わせておきたい人がいるんです。まだみちるが持っていない、みちるだけの大切な思い出……それをみちるにあげたいんです」

「…そっか喜んでくれるといいな」

「はい」

 そして私は祈った。あなたの笑顔が……いつも暖かな陽だまりの中にありますように……。

 

 

「雨、あがってたのね」

 頭上に広がる夜空からはいつの間にか涙の色は消え、小さな星の欠片たちが精一杯に光り輝いていた。それはまるで、自分という存在を必死で他人に伝えようとしているように見えて、それが少し愛しく思えた。

美凪はずっと私に気づいて欲しかったのだろう。だけど私は逃げることに必死だった。みちるが死んでしまったことを認めることができなくて、夢を現と信じこんで、逃げ回ることばかりを繰り返していた。

 だけど夢は永遠ではないから、いつかは覚めるものだから……。

 夢が終わりを告げたいま、私は生業から逃げ出すわけにはいかない。

 悲しくても、苦しくても、それを悔やんでばかりでは、人は前に進むことはできないのだから……。

 小百合はすぐそこまで迫る、最後の夢との別れを覚悟していた。

 

 

「…美凪のおうち?」

「…そう。私のお家。…晩御飯……私のお家で食べようか」

 翌日の夕暮れ。いつものようにシャボン玉を飛ばして、いつものようにはしゃいでいた夏の夕暮れ。みちるのまだ持っていない、大切な思い出をあげるために、美凪はみちるを家へと招こうとしていた。

みちるは見て取れるほどの戸惑いを見せていた。それは、当然のことなのかもしれない。本来ならばみちるにとって、そこは温かな自分の家だったはずの場所なのだ。

 大好きな家族に囲まれて、大好きなハンバーグをたくさんつくってもらえる。そんな大切な場所。

そして……望んでもたどり着くことができなかった場所。

 そこにみちるを連れていってあげたいと、美凪は願った。それは決して同情なんて感情ではない。美凪にとって、みちるは大切なお友達だったから、大切な家族だったから。

「んに、わかった」

 大切な、幸せな思い出。

 みちるにとって、今日という日はそんな思い出になってくれるのだろうか? 

 家へと向かう道すがら、和樹と美凪は前を歩くみちるの後ろ姿を眺めていた。寂しそうにも、悲しそうにも、そして楽しそうにも見えて、二人は言葉をかけることができず、ただ歩いていくだけであった。

「…私は……残酷な人間です。…私は、これからみちるを傷つけてしまうかもしれません。届かないものに手を伸ばせと言っているだけなのかもしれません。でも、それでも連れて行きたいんです。一目合わせてあげたいんです、…大切な人に……ずっと大切に想い続けてくれた人に……」

 ずっと自分ではない存在を演じ続けてきた少女。大切なひとの笑顔を守るためだけに、自ら悲しみの中に身をおきつづけてきた少女。居場所を失い、自身を失い、それでも愛することをやめなかった少女。もし今日が悲しみしか残さない思い出になったとしても、いったい誰が彼女を責められるだろうか……。

 遠野美凪は、いつだって、誰にだって優しかった。その優しさで、誰もが忘れがちな想いを守り続けてきた。だから、だからこそ……。

「…大丈夫だ」

 柔らかな風鈴の音が響く食卓。帰りを待ってくれるひとたちがいる、暖かな日だまりのような家。それは幸せな光景なのだと、泣きたくなるほどの幸せな景色なのだと、和樹はそう信じたかった。

 ………。

 ……。

 …。

 はじめは、みちるも戸惑うばかりだった。大好きなはずのハンバーグを前にしてもそれには手をつけず、手に箸を持ったまま、目の前にある穏やかな微笑みを、ぼうっと眺めているだけ。

「あらイヤだ。私ったら、あなたのお名前を訊いてなかったわ」

 そのひとは、優しく微笑みながら言った。

「ねぇ。おばさんにあなたのお名前、教えてもらえないかしら」

「…んに……なまえ……?」

「そう、お名前」

「…んに……」

 みちるはその人に訪ねられると、隣に座る美凪を上目遣いで見上げた。

「…教えてあげて」

 美凪は、とても優しい眼差しでそう言った。

「いいの?」

「…うん」

 美凪の微笑みに、みちるは小さく頷く。

「…あのね……」

 それは、震えるような声だった。

「…みちるは……みちるっていうの」

「えっ……」

 みちるの視線の先にいた女性の、小百合の顔から微笑みが消える。

「…みちる?」

 確認するように、小百合はもう一度言葉を繰り返す。

「…うん」

 みちる。生まれてくるはずだった、祝福されるはずだった、一つの命の名前。けれど、生まれてくることはできなくて、悲しみを帯びた、辛い記憶を連想させるだけの名前。

「そう。…みちるっていうの……」

「…んに。あ、あのね、みちるね……みちる、ほんとはね……ほんとは……」

「…みちる、ふふ……とても良いお名前ね」

 小百合に、微笑みが戻る。

「え……」

「さあ、みちる。ハンバーグ冷めちゃうから、早く食べてみて。大好物なんでしょ?」

「うんっ」

 それでも、小百合にとって『みちる』という名前は、とても大切な名前。

たとえそれが悲しい名前だとしても、思い出の中にだけ存在する名前だとしても、愛しい娘の名前なのだから、だから、何も心配なんていらなかったのだ。誰もが持ちえる、ありふれた優しささえあれば……。

「みちる。私のハンバーグもわけてあげるね」

 小百合は、自分の分のハンバーグをみちるの皿にわけながら言った。

「いいの?」

 みちるが、その人の顔を見上げる。

「うん。いっぱい食べてくれると、とても嬉しいから」

 とても暖かな微笑みと共に、みちるを包みこむ声。それは、母親の声。

「遠慮しないで、たくさん食べてね」

「…あ、ありがとうっ」

 

 

…たくさんのぬくもりを感じていた。

それはとても優しくて、ずっと伝えたい言葉があった。

生まれてくることはできなかったけれど……。

とても永い時間がかかってしまったけれど……。

でも、それでも幸せだったと胸を張って言えるから……。

いつだってここに帰ってくるよ。

…だから今だけは……

さようなら。

おかあさん。

 

 

「和樹さん。みちる、喜んでくれましたよね」

「ああ、喜んでくれた」

「…間違いではなかったんですよね……今、こうして歩いているということは」

「ああ、間違いなんかじゃない」

「…よかった」

 夜道を歩く。高台の神社へと続く農道を、神社に背を向けて三人で歩く。みちるははしゃぎ疲れたのか、和樹の背中で小さな寝息をたてていた。

 辺りに外灯がないせいか、足元はおぼつかなかったけれど、明るい月明かりと、星粒のような蛍の群れが道しるべになってくれたから、前を向いて歩くことができた。

「私……本当はずっとこのままでいたかったんですよ。…ずっと一緒にいたかったんです。…ずっと……同じ風の中にいたかったんです。…他人が見たら、夢を見ていただけだと笑われるかもしれない。夢なんて、ただの幻だと叱られるかもしれない。でも、それでもかまわない……」

 懐かしい風が吹く。安らぎを憶える、優しい風。遠い星の歌声と、月の囁き。

 願いごとは、たった一つ。

ただ、同じときの中で笑いあいたかった。

振り返ることもあるけれど、迷いから、過ぎ去った昨日を懐かしむこともあるけれど。それでも、踏み出す足先はいつも明日へと続く。愛おしい過去の思い出を糧に、明日を目指して歩いていく。

幸せを願うというのは、そう言うことだと思う。

 夢の中、陽だまりの暖かなぬくもりが、どこまでもどこまでも広がっていく。

 




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