Feather 第十一幕 夢の終わりに

 

 

翌日になっても雨は止むこともなく、灰色の雲から落ちていく雫が、大きな音を立てて町に降り注いでいった。

「…朝か」

駅舎の中、しぶきがアスファルトの上に弾んでいる光景を窓越しに見つけながら、和樹は眠たそうにまぶたをこすっていた。

美凪の姿はどこにも見当たらない。薄汚れた椅子に腰掛けようとしたが、ぎしりと大きな悲鳴を上げたので腰掛けるのをやめ、それを部屋の隅っこに移動させる。

ゆらゆらと一つきり揺れる、古ぼけた椅子。その揺れを眺めているうち、忘れかけていた孤独感が、微かに眠気の残る思考に染みこんできた。

 美凪はあの後、家に帰ったのだろうか。駅舎の中を軽く見回してみると、昨夜和樹が散らばらせた荷物がそのままの形で置かれている。少なくとも、ここにはきていないようだった。

 朝食を食べ終えてからぼんやりとしていると、降りしきる雨の中、みちるが視界の先に立っていることに気づいた。

 緑色の子供用の小さな傘をさして、手に返ってくる雨の振動をじっと感じ続けている。とても悲しそうな表情だった。見かねて、和樹はみちるを駅舎の中に招き入れる。

 みちるは緑の傘をたたみ、地面を何度かついて水を払い落とすと、一呼吸分の沈黙を挟み話し始めた。

「…ねぇ……和樹。お願いがあるの」

「お願い?」

「うん。きっと和樹にしかできないことだから……だから、きいてもらえるかな」

 

 

 

 もうすぐ日が暮れる。茜色の空を覆う雨雲は、さらに勢いをまして町に降り注いでいく。その中を、和樹は走り続けていた。

 重い雨粒が、まるで銃弾のように襲い掛かってくる。それが身体を打つたび、軋むように心が痛む。跳ね返る水たまりが、靴を濡らす。知らぬ間に靴の中にも水が入って、足を踏み出すたびに靴底がぐちゅぐちゅと鳴る。足音は白く煙った町の中に吸い込まれて、すぐに手が届かなくなる。

だけど、それを追いかける必要はない。追いかけるべきは一つだけ。

雨の向こうに見える少女の姿を追い求める。

 激しい雨が、和樹と彼女の隙間に降り注いでいた。でもその向こうには、きっと青空が広がっている。もし少女がその青空に気づかずにいるのならば、教えてあげたかった。いつだって、俺たちは青空の下にいるということを……。

『美凪は、まよってるんだよ。まだ、夢から覚めることをためらってる。だから、美凪の夢を覚ましてあげて。そうしないと、誰も前にはすすめなくなってしまうから』

 そんな風にみちるは言っていた。

 白いリノリウムの階段を上った。足跡は、水滴となって後ろに続いていく。暗い廊下。非常階段を示す黄緑色の明かりだけが、薄闇に浮かんでいた。きゅっきゅっと甲高い靴音が廊下に響く。これで、いったい何段のぼっただろう。振り返ると、階段が薄闇に隠れてうまく数えることができなかった。

「…どうでもいいか」

 階段が何段あるのかを数えても仕方がない。歩みを止めることなくのぼれば、いつかは終わるものだから、いつかは、必ずたどり着くものだから……。

『これが最後のお願いだよ。すごく自分勝手だけど……みちるの思い出が、いつも笑って思い出せるものにしてほしい。だからね……』

 屋上へ通じる階段の踊り場にたどり着いた。鈍色をした鉄扉が、薄闇の中にたたずんでいる。手を伸ばし、冷たいドアノブを回す。

 がちゃっと小さな音がした。

 力を込めて押すと、軋んだ音をたてて、重い鉄扉がゆっくりと開いていく。

淡い月明かりが、色の濃くなったコンクリートを照らしていた。いつの間にか雨はあがり、雲の隙間からは、星の輝きが顔を覗かせていた。

そして、そんな星空を見上げる少女が一人。

「…ようやく雨があがりましたね」

 雨に濡れ、遠い光を反射する足元に視線を落としながら言う。

 不思議と、ここにいるということを確信していた。だから、どこに行けばいいかと迷うようなことはなかった。

 振り向いた少女。真っ白なワンピースに、茶色いカーディガンを羽織った見慣れた姿。遥か遠くに見える、幾重もの銀色の輝きの下。淡い月明かりの下で、美凪は緑のフェンスに手を引っ掛けながら、吹き抜けていく風を一人きり感じ続けていた。

「…知らない間に……雲の上は星空になっていました。一日なんて……本当にあっという間ですね」

 雨だれの音が、風を呼ぶように夜空の下で小さな音を奏でる。

「…私……この時間になるといつも思うんです。…今日一日でやれたこと……もっとたくさんあったんじゃないかって」

「後悔している、のか?」

 美凪は黙ったまま、わずかに首を横に振る。

「…たぶん違うと思います。…それは……きっと後悔なんかじゃなくて……今日できなかったから、明日こそはと思える気持ち……明日を夢見て眠る……幸福な子供の気持ちですよ」

 明日があるから。今日が終わってしまっても、いくらでもみちると過ごせる時間はあるから……。

「…なら、どうしてお前は泣いているんだ」

 夢の終わりなんてものはないから、願えばいつまででも夢は続いていくから……そう信じているから……、信じれば、願いは叶うから……。

「…泣いてなんかいません」

 目を逸らし、呟くように言う。

「馬鹿っ、つまらない意地を張るな」

「つまらない?」

「泣きたいときに泣くのは、悪いことじゃないだろ」

 言って、和樹は美凪の肩にそっと手を伸ばそうとする。けれど、伸ばした手を彼女はすり抜けて、触れることはできなかった。

「美凪?」

 いつもとは、何かが違う気がした。

「どうしてつまらないんですか。親友のために意地を張るのが、そんなにつまらないことですかっ!」

「おいっ、なにを……」

 悲しくて、どこまでも切ない叫びが空に響いていく……。

「ここで私が泣いたら、あの子はいつ泣いたらいいんですかっ。あの子は……産声さえあげることができなかったんですよっ。泣きたいと感じることさえできなかったんですよ。なのにいつも笑ってくれて……私の側にいつもいてくれて……いっそ憎んでくれたら、もうあんな夢を見なくてすむのにっ」

 それは、遠野美凪の心の色だった。言葉では言い表せないほどの悲しみを背負った心。あるはずのない温もりに身をよせることしかできなくて、あるはずだった幸せな夢の中にしか、居場所を保てなくて……、でも夢はいつか終わりの時を迎える。いつかは覚めるものだから、夢は夢のままでいられる。

「…いつも同じ夢を見るんです。すぐ側にあるはずの笑顔に手を伸ばしても……決して触れることができない。何度も何度も手を伸ばしてみるけれど……そこに温もりはなくて、泣いても叫んでも……指先には……冷たい空気が触れるばかり。…それでも……笑ってくれるんです。頭を撫でてあげたいのに、私も同じように笑いかけてあげたいのに、でもそこにいないから、そこには……何もないから、触れられないんです……」

 そっと、和樹は美凪を抱き寄せる。雨に濡れた服に、彼女の温もりが触れる。背中に回した腕に、彼女の震えが伝わってくる。

「…寂しかったのか」

「…はい」

「…そっか」

 抱きしめる腕に、力をこめる。濡れた髪に手を触れて、確かめてみる。

「…なら……あいつを夢から覚ませてやらないと。いつまでも夢の中にいたんじゃ、嬉しいときにも泣けないから……」

 夢の終わりが、いつも優しい陽だまりの中にあるように……。

いつまでもいつまでも、温もりと共にあるように。

 風が遠い海の上を流れていく。ようやく辿り着いた、故郷の上を流れていく。

 夢の向こうに、大切なものをおいてきたから……忘れたのではなく、置いてきただけだから……。

「なあ美凪、お前はなにをしてやりたい? 大切な人に、なにをしてやりたい?」

「…私が……?」

「そうだ。おまえ自身が、なにをしてやりたい?」

「…私……私は……」

 夢の終わり。覚めることなど、永遠にないとさえ思われた、遥かな夢の終わり。目を開けたその先に……。

 

 

 

あたたかな、陽だまりのような家だった。美しい笑顔を絶やすことのない母。すべてを包みこむ、強さと優しさを持った父。私は、この家が好きだった。

この家に生まれこの両親とともに暮らせることが、とても幸せだった。

白い壁にかかった、背に羽を持つ不思議な少女の絵。これが、私にとって最初の記憶。まだ歩くことも、喋ることもできない頃から、その絵はずっと同じ場所に掛けられてあった。

「ねえねえ、お母さん」

「どうして、この子にはお羽があるの? どうしてみなぎにはお羽がないの?」

 私は、何度も何度も同じ疑問を母にぶつけて、母を困らせてばかりいた。

「さあ……どうしてかな。美凪も、いつかはお空を飛べるといいわねぇ」

 母の答えは、決まってこうだった。何も解答は得られない。でも、そう言った後に母が見せる小さな笑顔。それが全ての答えだった。

 本気で羽がほしいと思ったことなんてない。もし私に羽があって、自由に空を飛べたとしても、私はすぐに飛ぶことをやめて、この家に戻ってきただろう。 

大好きな両親がいる、この家に……。

 羽根を持つ少女の絵は、母が家から持ってきたらしかった。

父はその絵がとても気に入り、すぐに壁に立てかけた。夜には、暗闇のなかでそこだけが輝いているように思えた。

父は町の駅長を務める傍ら天体観測を趣味に持つ、優しくて、とても夢見がちな人だった。

 一番覚えているのは夏の夕暮れ。父に肩車をしてもらいながら聞いたひぐらしの声。その声を聞きながら、私は父と一緒に、空を見上げながら歩くのが好きだった。父の肩にゆられながら見る遠い星の輝きは、どんな宝石よりも綺麗だった。どんな温かい布団の中で見る夢よりも、ステキな光景だった。

 私は父の肩の上で、あの絵の中の少女のように、星粒の隙間を自由に飛びまわった。羽なんて持たなくても、私はいつだって空を飛ぶことができた。

 

「ねえねえ、おかあさん。ほんとにだいじょうぶ? いたくない?」

 ある春の日。母の大きくなったお腹に触れながら、私は不安げな眼差しで母の顔を覗きこんでいた。

「だいじょうぶよ。どうしたの、そんな心配そうな顔をして」

 母はそんな私の頭を、いつだって優しく撫でてくれた。

「だって……」

「ふふ……このお腹はね、別に病気になったわけじゃないのよ。神様に少しだけ、幸せをわけてもらったから、だから大きくなったの」

「しあわせ? なにそれ?」

「お母さんやお父さん、そして美凪にとってもすごく嬉しいことよ」

「???」

「あら……ちょっと難しかったかしら」

「…えっとねえ……うん……よくわかんない」

「そっか、わかんないか。じゃあねぇ……これならどう?」

 母は壁にかけてあったあの絵を手に取り、私の前に据えた。

「神様がひとつだけお願いごとを叶えてくれるとしたら、美凪は何をお願いするのかしら」

「お願いごと?」

「そう。ひとつだけね」

「ひとつだけかぁ……なにがいいかなぁ……お人形さんも欲しいし、お洋服もほしいなぁ……」

 私の頭の中は、様々なお願いごとですぐに一杯になった。でもその中でも、一際まぶしい輝きを放つお願いごとがあった。

「…あ、そうだ」

「決まった?」

「うんっ。えへへ……あのねぇ……みなぎ、妹がほしい」

 私は、少し照れながら言った

「ふふ……そう?」

「あのね、いっしょにおままごととかシャボン玉遊びとかしてあそびたいの」

 それまで、私にはそんなことのできるお友達はいなかった。一人でいることが好きだったわけじゃない。公園で遊ぶ子供たちの輪を遠くから眺めながら、いつだって『仲間に入れて』と声をかけてみたかった。

 でもできなくて、たった一言を言い出す勇気がもてなくて……。だからいつもおままごとやシャボン玉は、一人でする遊びだった。いつも一人で何人もの役をこなさなければならなかった。それを心から寂しいと感じ始めた頃の出来事。

「じゃあね、お母さんのお腹に触ってみて」

 母は私の手を持ち、その手を優しくお腹に当てた。柔らかな鼓動と温もりが手のひらに伝わった。

「さあ、目をつむって。そしてね、神様にお願いするの。かわいい妹が生まれてきますようにって」

「?」

「ふふ……」

 母は優しく微笑むだけだった。私は意味を理解することができず、言われたまま目をつむった。

「えっと……みなぎはいっしょにおままごとのできる妹がほしいです」

 私は願った。祈りには遠い、幼い子供のささやかな願い。でも、とても真剣な願いを神様に託した。

「これでいいの?」

 目を開けて、母の顔を見上げた。母は私の目を見つめ、微笑みながら頷いた。

「きっと、神様は美凪のお願いを叶えてくれるわ」

 今にして思えば、母はそのときすでに、お腹に宿った子供が女の子だと知っていたのだと思う。母が妊娠していると私が理解できたのは、それから少しのときが流れてからだった。

 やがて、季節は早足で夏を迎えた。

 毎朝庭の木立で鳴くセミの声で目を覚まし、窓から差しこむ陽射しに目を細めていた。そんな季節。

 私は朝起きると一番に、母のお腹にいる妹に語りかけることを日課にしていた。たわいのない話だった。

「今日はあついね」

「ずっとお腹の中にいて、苦しくない?」

「昨日の晩ごはんは、はんばーぐだったんだよ」

「今日は、ずっといっしょにいてあげるね」

 私は妹が楽しんでくれるように、がんばって楽しい話を考えた。

 幼い子供が思いつく話なんて、今にして思えば大したことはない。もしかしたら、妹は話を聞きながらうんざりしていたかもしれない。

 でも私は話し続けた。たまに妹が母のお腹を蹴ると、楽しんでくれているのだと思い、私は嬉しくなった。

 そういえば、お母さんのお姉さんって人が来たことがあった。何か辛いことがあったのか、寂しそうな目をしていた。私はその人を元気にしてあげようと思って、妹の話をたくさんしてあげた。いっぱいの話をしているうちに、次第にお姉さんの顔は元気になっていった。そして最後に、

「早く生まれてくるといいわね」

 そう言って、頭を撫でてくれた。お姉さんの言うとおり、本当に早く生まれてきてほしかった。そうすれば話をするだけじゃなくて、一緒に遊ぶこともできるから。

 でも……その願いは、結局叶えられなかった。

 あれは、その夏で一番暑い日だった。朝、私はいつものように妹と話をするため家の中を歩き母の姿を探した。母は台所にいた。朝食のおみそ汁の匂い。私の大好きな匂いだった。母は、その中で倒れていた。

 冷たい床に横たわり、苦しそうな顔でうなっていた。

 私はどうしていいのかわからず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。そんな私の姿を見つけた母は、私が心配しないようにと、蒼い顔をしながらも、小さく微笑んでくれた。

「…だいじょうぶ……だいじょうぶだからね……」

 そのときの母の声が、今も耳に残って離れない。

 その後、どうなったのかは覚えていない。気がつけば私は父と一緒に、病院の暗い廊下におかれたソファーに二人で座っていた。

 父は何も言わずに、うなだれ続けていた。そんな父の様子が心配になって、私は父の半袖シャツ裾をくいっと引っ張った。

 だけど、父は何も言わなかった。ただ少しだけ私に顔を向けて、薄く微笑むだけだった。

悲しかった。どうしてだかよくはわからなかったけれど、父のそんな顔を見るのは初めてだったから、とても悲しかった。

 しばらくして、母が入っている救急処置室の扉が開いた。中から出てきたのは、大きな青いマスクをつけたお医者さんだった。父が立ち上がると、そのお医者さんは大きなマスクをとった。

 私は、その瞬間とてもびっくりした。

 その人は私とよく遊んでくれていた、霧島聖さんのお父さんだったからだ。聖さんのお父さんは、父と二言三言話をした後、ゆっくりと首を横に振った。

「現在、母子ともに非常に危険な状態にあります」

 難しくて何を言っているのか理解できなかった。だけど父の顔を見て、母が危ないことだけは悟ることができた。後になって知ったことだが、母はそのとき、重度の妊娠中毒にかかっていたそうだ。

「おかあさん……だいじょうぶだっていってたもん……」

 私は夜になって病院に駆けこんできた親戚のおばさんに連れられて家に帰った。父は病院に残った。

 その夜私はおばさんの目を盗んで家を抜け出し、駅まで走った。私の知る限り、そこがもっとも星のよく見える場所だった。

 私は、神様に願った。おかあさんが、早くよくなりますように。おかあさんが、どこにもいきませんように。もし妹が母を苦しませているのなら、私は姉として妹を叱らなければならない。妹が、母をどこにも連れていかないよう、私は神様に願った。

もしかしたら、それは嫉妬や憎しみに近い感情からの祈りだったのかもしれない。私はほんのひと時でも、妹を憎んでしまったのかもしれない……。

 翌日になって、私は再びおばさんとともに病院へ向かった。母は違う部屋に移されていた。病院にはいると、酸素呼吸器をつけた母がベッドの上で眠っていた。

よかった、母は無事だったのだ。私の願いを……神様が叶えてくれたのだ。私は安心して、ベッドの隣に座る父の背中に抱きついた。母が無事だったことを、父と一緒に喜びたかった。でも父は私を見ても、昨日と同じ顔で微笑むだけだった。

「どうしたの、おとうさん」

 背中にぶら下がりながら訊いても、父は何も言わなかった。

「みなぎね、きのう神様におねがいしたの。おかあさんがはやくよくなりますようにって、きっと神様がみなぎのおねがいを叶えてくれたんだよ」

 私は父の喜ぶ顔を見たくて、『良い子だな、美凪は』と頭を撫でてもらいたくて、そうまくしたてた。

 でも父は何も言ってくれなくて、頭も撫でてくれなくて、ただ悲しい目を私に向けた。どうしてそんな顔をするのだろう。どうして、褒めてはもらえないのだろう。私は、良いことをしたはずなのに…。

それからしばらくして、母は家に帰ってきた。嬉しかった。また家族一緒に、楽しくて美味しいご飯を食べられる。これで妹が生まれてくれば、もっと楽しい毎日になるだろう。その日が楽しみだった。

…けれど……いつまでたっても妹は生まれてこなかった。

 

 




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