Feather 第九幕 飛べない翼
その日の夕方、美凪に連れられて、三人は学校の屋上へ向かった。陽はまだ落ちていなかったが、もう学校にひとけはなかった。
屋上の鉄扉を開けると、陽に焼かれた足元から、じりじりと熱気が立ち上っていく。いくつもの夏が、ゆらめきを色褪せていく。
「やっぱ、綺麗なもんだな」
眼前に広がるのは夕焼け。どこまでも続く赤が世界を色づかせていた。
「…そうですね……綺麗です」
二人並んで風に吹かれる。笛のような風を聴きながら、今日一日の出来事を、夢見るように思い返していた。
「…また鳥が飛んでますね」
遠い海。夕陽の赤が色を落とす穏やかな海の上を、彷徨うように飛ぶ鳥がいた。あの日の夕暮れと同じ光景。居場所をなくして彷徨うしかない、飛ぶことを忘れた翼。でも、けして目指すところを忘れたわけじゃない。
ただ、たどり着くことにとまどっているだけで……。
振り返ると、みちるは少し離れた場所から美凪の姿を見つめていた。その姿に和樹は見覚えがあった。自分の隣で小百合を見つめていたときの姿、自分の居場所はあそこではないと、諦めた姿だった。
「…どうかしたのか?」
「ううん、なんでもない」
みちるはそれだけしか言わなかった。あとはとことこと和樹と美凪に近づいて、口を閉ざすだけ。
そんなみちるの姿を、美凪は悲しげな眼差しで見つめていた。そして……。
「…ねぇ……みちる。私のせいかな」
「えっ、なにが?」
「…みちるが……そんな顔をしている理由」
みちるは何も答えなかった。否定も肯定もしない。ただうつむいて、目の前に広がる夕焼けから、視線をそらすだけだった。
「…そう」
美凪は沈黙を答えと受けとったのか、みちるに向けていた眼差しを空へと返した。風の隙間を漂う沈黙の中に、三人は身を置く。今日という日の終わりが、確実に近づいているがわかった。
「…やっぱり……やっぱり違うよ……みなぎ……」
みちるは、海を見つめていた。穏やかな凪のなか、夕陽をその身に抱く海を見つめていた。
「…違う? …何が違うの?」
「…ここは……」
そこまで言って、みちるは一度口をつぐんだ。ためらうように自分の足元を見つめ、ため息ともとれる息を吐いて、小さく深呼吸をする。
「ここは、みなぎの居場所じゃないよ。みなぎだって、わかってるんでしょ?ぜったい無理してるよ……」
「…無理なんて」
「だめだよっ、うそついたらっ」
強い口調で、美凪の言葉を制した。
「だって、みなぎさみしそうだもんっ。どんなにごまかしたって、みちるにはわかるんだもんっ」
小さな身体を振り絞るように、想いを言葉に変えて叫ぶ。けれどそれは、悲痛でしかなくて……。
「ずっと……ずっといっしょだったから、わかっちゃうんだもん。みちるには……みなぎのことがわかっちゃうんだもん」
みちるは目に浮かんだ涙を必死で堪えながら、幼い瞳に精一杯の強さを秘めて、じっと美凪を見つめ続けていた。手を伸ばし、指先が何かに触れるまで、少女は言葉では足りない想いを瞳に宿し続けた。
「だめだよみなぎ……さみしいときはさみしいってちゃんと言わないと、だめだよ……そうじゃないと、みちるだってかなしいよ。みちるは……そんなみなぎをみてるの……かなしいよ……」
「…うん……ごめんね」
柔らかな翼を広げるように、美凪は夕映えにみちるを優しく抱きしめていた。みちるの目には涙が浮かんでいた。ぬくもりを、小さな身体いっぱいに受け止めようとしていた。つながる想いが黄昏てゆく海にまで届いて、波は夕凪に優しげな顔を見せていた。
想いを込めて伸ばした指先がたどり着いたのは、どこまでも広がり、やがて水平線の彼方で空と交わる海。
『和樹君。お母さんに忘れられるのって、やっぱり辛いものだよね』
和樹は考えていた。二人の、そして自分自身のために何が出来るのかを……。
帰り道の途中、前を歩く美凪の後姿を見つめながら、みちるは和樹の服の裾を引っ張った。小さな手のひらから伝わる、精一杯の想い。
「…分かってる」
和樹がそれに応えると、みちるは少しだけ微笑みながら頷く。
「…ごめん。あとのことは、まかせるね。これでやっと……永かった夢は終わることができるから」
その晩、和樹は佳乃に連絡を入れた。真実と向き合う、そう決めたから。
夜明け。和樹と美凪はベンチに腰掛け、いつものように星空を眺めていた。深くなった夜の闇の中、星々の瞬きはその輝きを増していた。吸いこまれそうな夜の世界に、小さなため息を吐く。
「…美凪。俺はこの町を出ていくことにした」
「町を?」
「ああ、それで実はお前にお願いがあるんだ。なに、簡単なことだ」
「なんでしょう?」
「俺と一緒にこの町を出てくれないか? おまえに見せてやりたいんだ。世界を……夢なんかじゃない、本当の世界を。だから一緒に行こう。世界を見つけに」
夜虫たちの声を背景に、二人の間に永い沈黙があった。それは、一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり……そして……。
いつもと変わることのない朝。セミたちの声が、陽射しとともに駅舎を優しく包みこんでいく。
「行くか」
旅支度を整え立ちあがる。美凪が、静かに旅行カバンを手に提げてそれに続いた。そして、二人は旅に出た。目指している場所。忘れてきた、置いてきてしまった大切なものがある、その場所を目指して……。
………。
……。
…。
「やれやれ、やっと到着したな」
美凪の眼前には、木造の家があった。けして豪華なつくりではないが、それは、どんな豪邸よりも輝いて見える家。幼い頃から見続けてきた家。
「…どうしてですか」
美凪は自分の家の門構えを見つめながら、少し悲しそうに言った。
「…迷ってるか?」
小さく頷く。
「なら、あれを見てみろよ」
垣根の向こう側に見える縁側を指差す。佳乃と聖と、そして…陽射しの中で、空を見上げている女性。とても悲しげな姿をした一人の母親。
「…お母さん……」
「そうだ。お前の、そして……俺のな」
驚いた瞳で、美凪が和樹を見つめる。
「…和樹さんの……?」
困惑しているようだった。けれど、真実と向き合うと、そう決めたから、美凪に自分のことを伝えることに後悔はなかった。
「さて、俺は行く。行って、あの人に会ってくる。それが旅の終着駅だからな。美凪、お前はどうする? 行くか、それとも止めるか? 旅を続けたければ、すぐにここから離れればいい。選択は自由だ、強制はしない。遠野美凪自身の意思で決めればいい」
「…美凪……?」
「ああ、お前は遠野美凪だからな」
「…遠野……美凪……」
その名前を、かみしめるように呟く。
まだ彼女は迷っているようだった。これからどうするのかを。うつむき、考えていた。それはとても永い時間。この家に生まれ育ってきた過去をゆっくりとさかのぼるためには、どれほどの時間が必要なのだろうか。
幼い日々。幸せだった日々。そして、幸せではなかったかもしれない、もうひとつの日々。
「遠野……小百合さんですか」
和樹は一人、縁側まで足を踏み出していた。繰り返してきた夢に、別れを告げるために。母と……向き合うために。
「…あなたは?」
「獅堂、いや国崎和樹です」
生まれた家、本来の名前。それが国崎だった。その名を耳にして、小百合の顔が一度だけぴくん、と震えた。
「…国崎和樹?」
小百合が聖のほうへと振り向く。女医は微笑をこぼしていた。
「さすがにここまで来れば、言い逃れもできませんよ」
「まったく、縁側で待たせて何をする気なのかと思っていたら……」
飽きれたようにため息を吐く。けれど、怒ってはいないようだった。
「困ったお医者さんだわ」
「小百合さん。実は和樹君と、もう一人来てもらっているんです」
「もう一人?」
梢がゆれて、一人の少女が姿を現す。少しとまどいを残した足取りで、ゆっくりと垣根の隙間から顔を出していた。もう、寂しさに振り返る必要はない。遠野美凪自身が決めて、踏み出した一歩なのだから……。
それが、この世界で生きてゆくということだから……。
「美凪っ」
小百合が少女の名前を叫ぶ。少女の、本当の名前を。
「…お母さん……ただいま……」
「おかえり、美凪」
陽だまりのように暖かで、全てを包みこむような笑顔。
頭上に広がる夏空に、一羽の鳥が彼方を目指して飛んでいく。
もう彷徨う必要なんてない。行くべき場所は、いつだって手の届くところにある。どこまでも伸びゆく空に放たれる、とても清らかな声。鳥のように羽ばたいてゆく声。
かつて、美凪は言った。
『飛べない翼に意味はあるんでしょうか』
意味はあるだろう。それは空を飛んでいた日々の、大切な思い出なのだから。
隣に誰もいないベンチに腰掛けながら、和樹はずっと一人で星空を眺めていた。聞こえてくるのは夜虫たちの声だけ。永い放浪から、変えるべき場所見つけた少女。そんな人のことを想っていた。
「和樹は、帰らないの?」
夜道の中から、聞きなれた声が聞こえた。
「そうしたら、お前は一人ぼっちになるだろ。みちる」
とても穏やかな声。なんとなくここに来ることが分かっていたから……だから、みちるという少女を和樹はずっと待っていた。
二人でベンチに座る。聞こえてくる夜虫たちの声に耳を済ませながら、しばらくの間、みちるは足をブラブラさせていた。
「一人ぼっちなんて、そんな心配はないよ」
「…どうして」
「みちるはね、もう帰らなきゃいけないから」
夜空には、今日も無数のきらめきが広がる。
「帰る……どこへ?」
「…みなぎが帰ってきたときに、みちるも帰ってきて、和樹驚いてたよね」
「ああ、そりゃあな」
「あの日、商店街で和樹と歩いたあの日、みちるは思い出したから。どうしてみちるがここにいるのかを。それで、ちょっとお出かけしてたんだ」
「出掛けてたって、どこに?」
「…お空にはね……とってもさみしそうな女の子がいるの」
和樹の問いには答えずに、みちるは一人言葉をつむぐ。もう時間はないから、消えてしまう前に、伝えなければいけないから……。
「その子はいつも悲しい夢をみるだけで、ほかにはなにもない。しあわせになれないから、悲しい夢をみるしかない。みちるはね、…その悲しい夢のかけら。ううん……ちょっとちがうか……みちるは、その子の夢を少しだけわけてもらったの。その子の背中には、とても傷ついた羽根があって……その羽根には、すごく不思議な力があるの。いっぱいの人達が見た、いっぱいの思い出が、その羽根にはつまってて……。でもすごくかわいそうだった。だからたすけてあげたくて、みちるはその子の羽を一枚だけわけてもらったの。会いたいひとがいたから、会って、しあわせにしてあげたいひとたちがいたから。…そのひとたちのしあわせが、その女の子のしあわせにつながるとおもったから……みちるは、女の子に思い出をひとつだけわけてもらったの。そのひととおともだちになるには、思い出が必要だったから。みちるには、思い出がなにもなかったから……人間は、思い出がないと生きていけないから。…でも……それなのに、思い出だけでは生きていけない。夢はいつか覚めないといけない。覚めることを忘れた夢は、それがどんなにしあわせな夢であったとしても、いつかは悲しみにかわってしまうから。それは、とてもさみしいことだから……とてもつらいことだから……」
静寂の深淵を漂う澄んだ空気のなかで、幼い少女の声は、どこまで空に辿り着くことを許されただろう。
「だからね……みちるはかえるの。みちるは、しあわせな思い出をいっぱいもらったから。みなぎと和樹にも、いっぱいもらったから。女の子からもらった悲しいだけの思い出に、少しはしあわせな夢をみせてあげることができたとおもうから……だからね、みちるはあの女の子に羽をかえしにいくの。しあわせな思い出をいっぱいかかえて、女の子に会いにいくの。大好きなひとたちとお別れするのはさみしいけど……みちるは、ただの夢だから。星は、夜があけたら消えないといけないものだから……」
うつむいて、でもすぐに視線を上げて、まっすぐに前を見据える。
「みちるがいなくなっても、みなぎはきっと大丈夫だとおもう。みなぎはね、やっぱり美凪でいなくちゃいけないんだよ」
みなぎから、美凪へ。最後の声は、輪郭がとってもはっきりしたものだった。大切な人へ、大切な友人へむけられた、想いそのもの……。
「おまえは……おまえは美凪の……」
手を伸ばした。まるで、そこには存在しない何かを掴むように。そこにあるのがただの幻であることを知っているかのように、和樹は手を伸ばした。でも、その手は届かなくて……。
「みちるはみちるだよ。それでいいの」
少女は知っていた。自分の名前を、自分が誰であるかを。
「…でもね、やっぱりみちるはみちるじゃない。…本当のみちるは、どこにも居場所なんてない。ここにいるのは、ただの夢。そして、その夢も、もう……。にゃはは、けどすごく楽しい夢だったよ。…すごくしあわせだった。みちるはこの世に生まれてくること……ゆるしてもらえなかったけど……」
黄昏に似た声を最後に、少女はその場で涙を流す。その涙がなにを意味しているのか、その全てを知ることはできない。でも、悲しい。いつも元気に笑っていた少女の涙は、とても辛いものだった。
だから、和樹は抱きしめた。その少女が笑ってくれるまで、いつまでもいつまでも、その頭を優しく撫で続けた。たったそれだけのことしかできなかったけれど、いつまでも、いつまでも……。
空を見上げれば星。夜の闇でしか輝くことのできない星。もしも彼らが消えることの寂しさを知っているのならば、どうか叶えてほしい。
この少女をどこへも連れて行かないでほしい。連れ去ってしまわないでほしい。ずっと一緒にいさせてほしい。いつまでも三人で、覚めない夢を……見続けていたい。
でも、覚めない夢なんて、そんなものはないから……だから……別れはいつでもそこにあって……俺たちは、それを見つめることしかできない。
悲しいけれど、寂しいけれど……。
出逢いと別れを繰り返すことでしか、人は生きていけない。
夢の終わりは、いつだってそこにあるのだから……。
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