Feather 第八幕 偽り



夏の商店街を一人の女性が歩いていた。焼きつける強い陽射しで額に汗を滲ませながら、米袋をカートに積み、重たそうにそれを押していく。

「ふぅ」

 息をもらしてその手を休める。車まで五分近くかかることを考え、その過程を想像すると、頭上に浮かぶ太陽からの熱気が、どうにも恨めしく感じてならない。

「おや、小百合さん」

 買い物帰りなのだろう。声をかけた聖の右手には、大きめのビニール袋が二つぶら下がっていた。

「あら、聖ちゃん。診療所以外で会うなんて珍しいわね」

「ちゃんはやめてください、ちゃんは。もう子どもじゃないんですから」

「あはは、そうね。つい昔の癖で」

 美凪の母、遠野小百合と聖は古くからの知りあいだった。いや、正確には小百合と聖の父が、と言ったほうがいいだろう。遠野という夫婦がこの町にやってきて、右も左も分からない彼らの世話をしてあげたのが聖の両親だった。

 生まれたばかりの佳乃や美凪の面倒をみていた聖は、もともと子供好きという性格も幸いし、美凪をとおし遠野夫妻とはかなり親しい間柄になっていった。

「それにしても、ずいぶんと沢山買いこんだんですね」

 カートの上には五表もの米俵が積まれている。

「そうなんですよ。本当に、娘が食べて食べて」

「娘? 小百合さん、あなた以前、娘なんていないっておっしゃってませんでしたっけ」

「……!」

 あわてて口を塞ぐと、しまった、とでも言いたげに瞳をそらす。

「いいんですよ。そんな、嘘をつかなくても」

 聖のその口調は、とてもゆったりとしたものだった。

「ねぇ小百合さん。本当は忘れてなんて、いないんじゃないですか? 自分に遠野美凪という娘がいることを」

 確かに、彼女はほんの数日前まで美凪をみちると思いこみ、永い間夢を見続けてきた。夢であるはずのそれを現と信じ、その海に埋もれ、偽りの世界にその身を委ねてきた。

永遠に続くかのように思われたその夢は、ある日突然に終わりを告げた。みちるの死を受け入れたあの日、全ての記憶は蘇った。

そう、すでに小百合は思い出しているのだ。美凪のことも、…和樹のことも。

「このままでいいんですか、本当に」

「…仕方……ないんですよ」

 ゆっくりと、小百合は言葉を漏らす。

「仕方……ない?」

 こくりと頷く。

「これはきっと、罪なのですから……。和樹を失った私にとって、美凪だけが生きる希望でした。けれど、美凪は私より夫にばかり懐いていた。私はそのとき、夫に対して嫉妬に近い感情を持っていました。だからみちるを流産したあの日、私は、私の中で美凪を殺したんです。私に振り向いてくれない子供なんて必要ない、みちるがいれば、美凪なんていらない。そんな邪な思いを私は持っていて、だから、あんな夢を現実だと信じてきた」

「でも……」

 言葉に詰まって、それでも聖は必死に言葉を口から出そうとしていた。けれど、何も出てくる言葉はなかった。何かを言う資格すらなかった。

みちるという赤ん坊を流産して、小百合は記憶を失った。現実を受け入れたくなくて、その全てを、心の檻の中に封じこめてしまった。それは、遠野美凪という少女にしてみれば、悲劇以外のなにものでもないだろう。それなのに、聖は小百合が記憶を失って、内心ではそれを感謝してしまっていた。

 霧島聖。彼女の父親が殺してしまった、みちるという名の一つの命。それを小百合が忘れてくれたことに……感謝を……。

そんな下賎な考えを自分が持っていることに気づいて、それがやり場のない怒りとなって、自分の中に生まれていって……。

でも流産をした原因が、父の執刀ミスと小百合さんに知られるのが怖くて、だから結局、何も言えないままで……。

「先日、男の子が一人訪ねてきたんですよ。とても懐かしい顔。一目見た瞬間、それが和樹だとわかりました。たぶんあの子は気づいてないと思いますけど……。ふふ、これでも昔はポーカーフェイスって言われてましたから」

「…知っているなら、だったらなんで……」

「なんで母親と名乗らないか、ですか」

 聖がうなずくと、小百合は言葉を続ける。

「宿命ですよ。記憶を取り戻した以上、私もその宿命から逃れることはできないでしょう。美凪や和樹には、そんなものに振りまわされるような、そんな生き方をしてほしくはないんです」

「宿命……翼持つものですか。でも、それでいいんですか? こんなに近くに、手をかざせば、届きそうなくらい近くにいるのに、それなのに……知らないふりをして、そんな関係を続けて、あなたはそれで満足なんですか。翼を持つ人の話も、本当はそれを理由にして、無理やりにこじ付けて、ただ和樹君や美凪ちゃんから逃げるための、単なる口実にしたいだけなんじゃないですか?」

「………」

 小百合は何も答えなかった。無言のまま、カートを前に押し出そうとする。聖はカートを掴みそれを止めると、言葉を続ける。

「…否定しないんですね。自分でも分かっているのではないですか? 自分が傷つきたくないから、嘘を固めて練りこんで、未だ夢から抜け出そうとしない。あなたはそれで満足かもしれません。でもそれは同時に、美凪ちゃんや和樹君を騙し、傷つけているんですよ。それなのに……、いえ、それでもあなたは、何も知らないふりを続けるつもりですか?」

「…お話はそれだけですか? それなら、急いでいるので私はこれで」

そう言って、小百合は聖の横を通り過ぎていく。肩までかかる真っ黒な髪が遠ざかっていくのを、聖ももう引きとめようとはしなかった。ただ、信じたかった。母親の持つ暖かなぬくもり、母親の心の、その強さを。




 午前中。和樹とみちるは二人で町を歩いて回った。美凪は夏期講習のために一人学校へ。すぐに終わるはずのその時間が、やけに長く感じられた。

 誘ったのはみちるの方だった。

『ねえねえ、和樹。みなぎが帰ってくるまで、みちるとでーとしようよ』

 そう言って笑った。けれど、和樹にはみちるが心の底から笑っているようには思えなかった。何かが変わりはじめている日常。和樹の隣をみちるは歩く。うつむきながら、まるで悲しい夢から覚めたばかりの子どものように歩いている。

 辿り着いた先は商店街。人影もなく、いつもどおりの静けさに満ちている。

「あ……」

 みちるが言って、二人は立ち止まった。目の前にいるのは、小百合と聖。

 風向きのせいか会話はほとんど聞き取れなかったが、どことなく、それが深刻な話であることが雰囲気で感じ取れた。

「…仕方……ないんですよ」

「仕方……ない?」

 時折言葉が耳に届いたが、やはり何の話をしているのかはさっぱりわからなかった。やがてその会話も終わりを告げ、小百合はおぼろげな眼差しで和樹たちの前を通りすぎていった。和樹たちの存在には、気づいた様子すらなかった。

 たどたどしく歩く女性の姿を見つめていく。

すぐ近くにいるのに、手を伸ばしてもその手は宙をあおぐだけで、届くことはない。

「…おか……さ……」

地面にぺたりと座りながら、みちるは小百合を、寂しげなまなざしで見送っていた。誰に向けるともないつぶやき……。

 けれど彼女は確かに言った。お母さん、と。

「おまえ……あの人のこと、知ってるのか」

「んに……」

 問いかけても、みちるは答えない。ただ、光に霞む遠い人影を見つめるだけ。

その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「お前……泣いてるのか……」

「えっ」

 自分でも気づいていなかったようで、頬に触れて、それで始めて気づいたみたいだった。心がどこかにいってしまったみたいに、ただ目から水が流れていた。それを必死で堪えながら、みちるは言う。

「…ねぇ……和樹」

 一瞬、ためらうような小さな息。

「大切な人に忘れられるのって……やっぱりかなしいことだよね。でも忘れただけなら、いつか必ず思い出せるから……やっぱりこのままじゃダメだね……」

 輪郭を持たない何かが呼吸をはじめる。みちるは言葉を見つけられず、悲しげに瞳を震わせた。溢れる想いだけが、消えることなく少女を取り巻いていく。

「…あのね……みなぎ、いま家出してるでしょ」

「ばっ、みちる。お前なに言って――」

「隠してもダメだよ。みちるはね、みなぎのこと……いつも見てるから」

 和樹の言葉をさえぎるように、みちるは続けた。

『みちるには、心配をかけたくない』

 そう言って、家出のことを美凪はみちるに隠していた。

 それが、みちるに対する思いやりなのだろう。だから、和樹もそれに賛同して何も話さずにいた。みちるにもその思いが伝わっていたのだろう。気づいていながらも、みちるは美凪の前で、そのことについて一切触れようとはしなかった。そうすることが、二人の関係。二人の距離だった。

「みちるは、美凪が寂しそうにしてるのはイヤだよ。あんな美凪をみるために、みちるはいたんじゃないもん」

 みちるのその言葉に違和感を覚えた。少し考えて、和樹はその原因に気づく。『いる』ではなく『いた』という過去形、確かにみちるは、そう言った。

みちるは、ここに『いる』のに…。今も、そして未来も、ここにいてくれるはずなのに……それなのに……なぜ……?

 靄がかかる。優しいはずだった夏の記憶に、暗い夜道のような靄がかかる。

「…やっぱり……このままじゃダメだよ。美凪は……もう夢からさめないといけないのに……」

「それ……どういう意味だ」

「たぶん、和樹の考えてるとおりだよ」

「おまえ……まさか」

「ねえ、和樹はこのままでいいと思ってる? 和樹は…美凪になにをしてあげられる? …兄として」

「なっ、お前!」

「にゃはは、驚いた」

 みちるはしてやったり、と言う顔で笑った。けれど、それも一瞬。

「…たぶんね……みちるはもうなにもしてあげられないから……だから、和樹がしてあげられることをしてほしい」

 優しさの色を滲ませた、黄昏色の声。それはまるで、別れの言葉のような色をしていて……。

「みちる」

 指先を、和樹は少女に向けて伸ばす。でも……。

「みちるは先にかえってるよ。んじゃ、また後でね」

 伸ばした指先を、少女は擦り抜けてゆく。陽炎の中へと霞んでゆき、そして、見えなくなった。

「あいつ……」

 夏の陽射しの中に、和樹は一人取り残される。真夏の暑気に暑くなった胸に、消えることのないしこりを残して……。

「ひさしぶりーー」

 とん、と背中を叩かれて振り向いた先には佳乃がいた。

 霧島佳乃。ほんの数日前に行方不明になって、騒ぎをおこしたその張本人。

「おまえ、この間はどうして神社なんかにいたんだよ」

「うーん、あたしもあの日のことはあんまり覚えてないんだよねぇ。気がついたらあそこにいたって言うの?」

 聖はあの日のことを誰にも話してはいない。だから、誰も何も知らないまま、時間だけが過ぎていった。

「かなり重かったぞ」

「むむむ、ひどーい」

 そう言って佳乃は怒ったような素振りを見せる。けれど、そんな表情もやがて消え、

「ねえ、和樹君。お母さんに忘れられるのって、やっぱり辛いものだよね」

「…何のことだ?」

「小百合さんと、その娘と息子さんの話だよ」

 妙に落ち着きはらった声だった。まるで、全てを優しく包みこむような。

「…知ってたのか」

「みちるちゃんとの話、聞こえちゃったから」

「ああ……。そうか」

 佳乃は空を見上げ、陽の光を身体に浴びて、ゆっくりと言葉を続ける。

「あたしはね、お母さんのことってほとんど覚えてないの。もともとあんまり身体が丈夫じゃなかったんだって。あたしを産んですぐに寝たり起きたりになって……あたしが三つのときに、いなくなっちゃった。お父さん、よく言ってた。『お母さんはお前によく似てたって』って。想像しようとするんだけど、なんかうまくいかなくて……」

 陽光の中の佳乃の顔は、いつも楽しそうに輝いていた。悲しみの気配なんて、どこにも見つからなかった。けれど……いま隣にいる少女には、虚ろな影が見え隠れしていた。

「ねえ、和樹君。いいの? すぐ近くにお母さんがいるのに、なのに何も言わないままで。いつまでも、居心地のいい夢の中に居続けているだけで、一歩も前にでないままで……、こんなことをいつまでもずっと続けていて、それで本当にいいの? 和樹君や美凪ちゃんには、お母さんがいるんだよ。すぐそこにいるのに、手を差しだすのを恐れて――」

 言葉を一度止め、佳乃はふと、手首に巻かれた黄色いバンダナに手を触れる。

「もしも魔法が使えたらね、あたし、お母さんに会いたいなって……」

 強い日差しとは対照的な、静かな瞳。幼い彼女のそばで辛そうな吐息をもらす母の姿が、ふと脳裏に思い浮かぶ。

「和樹君は、会いたくないの? お母さんに」

「俺は……」

 父親と共にずっと旅をしてきて、母親の顔なんてほとんど覚えていなくて、でも、それでもいいと思っていた。母親なんて知らなくても、知らないまま生きても、それでもいいと、そう思ってきた。でもそれはきっと、そう思いこんでいただけなのだろう。母親がいなくても……いや、母親がいないからこそ、そう思いこみ、自分を必死で納得させようと、そうしてきただけなのだろう。

 母に会って妹に会って、彼女はいま苦しんでいて、俺はそれを見ていることだけをずっと続けて、自分のことも伝えずにいて……。

 それでも……。

「…佳乃、お前には関係ない。これは、俺の問題だ」

 振り返ることもなく、陽炎のなかへと和樹の姿が消えていく……。

 佳乃はその光景をじっとみていた。その肩に、聖がそっと触れる。

「親子そろって、強情だな」

「お姉ちゃん、やっぱりダメなのかな……」

「いや、そんなことはない。けれど、たぶんもう少しだけ時間が必要なのだろう。だから待ってあげよう。な、佳乃」

 必要なのは、ほんの少しの勇気。夢にさよならを告げて、前へと踏みだすための力。それは誰もが持っているはずの力。それなのに、傷つくことを、苦しむことを恐れて、誰もが夢の中にいる。

 偽りの現を望み、夢から覚めるのを恐れて……。





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