Feather 第七幕 陽炎

 

 神社への長い坂道を聖は駆けあがっていく。日はすでに落ち、真っ暗な静寂の夜が、世界をじわりじわりと浸透していく。それはまるで、闇が世界を飲みこんでいく様に似ていた。

 やがて坂道が終わりをつげ、鳥居が顔を現す。そこに彼女、佳乃はいた。袖のない真っ白な上衣。むき出しの肩に、月光が照り映えている。首を傾げるようにして、闇の中にたたずんでいる。星をみているようにも見えた。

「佳乃、やはりここにいたのか」

 別に行き先を知っていたわけではない。わけではないが、聖にはなんとなく、彼女がここにいるという予感めいたものがあった。そして、現実に彼女はそこにいた。

「佳乃?」

 真っ白なその肌に触れようとして、佳乃の様子がおかしいことに聖は気づく。声は聞こえているはずなのに、それに対して何の反応も見せようとしない。無視、というようにも思えなかった。もともと佳乃はそんなことをする娘ではないし、どちらかというと、全く自分のことに気づいていないような……、そんなふうに見えた。

「…たとえば……ほしのかず……」

 呪文めいた謎の言葉をこぼしながら、冷たい夜風を浴び続ける。

「そうか、また始まってしまったのか」

 聖はそっと、自らの首に巻かれた包帯に手を触れる。真っ黒な黒痣となって、今もありありとその時の痕跡を残しつづける。それは、佳乃に締めつけられた跡。

「やまではきのかず……かやの……」

「久しぶりだな。と言っても、まだ一週間程度しか経っていないが……」

「…おばな……かる……や……」

 話しかけられていることにすら、気づいていないようだった。

「…いつも通り、操り言を喋るだけか。意味もわからなければ、何の役にも立たない。お前は、佳乃をどうしたいんだ? 私にどうしてほしい……答えろ」

 氷を突き立てるような、鋭い訊問をぶつける。けれど、佳乃は何を言うこともなく、ただ空を見上げているだけだった。沈黙が、異様に引き伸ばされているような……。やがて、声が生まれる。

「…このこは……わたくしの……いのち……」

「…違うっ! 佳乃は、佳乃のものだ。私の、大切な妹だ……」

 聖は叫び、強く両の拳を握りしめる。紅い雫が、指先から僅かにたれようとしていた。爪が肉に食いこみ、血をこぼしているようだった。

 佳乃……いや、佳乃の姿をした何者かが、聖に向けて振り向く。じっと瞳を見続けていた。一言も言葉を放つこともなく、何かを確認するように……。そして、

「危ないっ!」

 突如、後ろから声が聞こえた。聖が驚いて振り返ろうとすると、肩に強い衝撃が生まれる。それは握りつぶされるような、破壊的な衝撃。

「痛っっ!!!」

 骨を直接握られているような痛みの衝動に、悲鳴にも似た叫びがあがる。

「蓮鹿っ」

「あいよ」

 少女の声が響いて、巨体の男が、聖の肩に掴みかかっていた華奢な小さな腕に手をかけると、強引にそれを引き離す。

 投げ飛ばされるような形になった聖のその身体が、重力に吸い寄せられるように、後ろ向きに尻もちをつきながら倒れこむ。

 聖が痛みを堪えながら見上げると、自分のすぐ真横に少女が立っていた。和樹の前にも現れた幼い少女。それと、額に傷のある男。

 理性を失ったように暴れまわろうとしている佳乃を、その男が必死に押さえつけているようにも見えた。やがて、男に押さえつけられながら必死にもがき続けていた少女の動きが止まり、糸の切れた人形のようにその場に倒れこむ。

「佳乃!」

 駆け寄って、聖は倒れた少女を抱き起こす。手首にまかれたバンダナが、佳乃の身体を支える聖の腕をふわりと撫でた。

「う、ううん……」

 閉じられていた瞳が何度か小刻みに震え、やがてうっすらとそれが開かれる。

「あれ、あれあれ? あたしどうしてお姉ちゃんに抱っこされてるの」

 目を覚ますと、もういつもの佳乃だった。先ほどまでのことは何も覚えていないのか、なぜこんな場所にいるのかと、不思議そうにきょろきょろと辺りを見回そうとする。

「なんでもない。疲れているんだ。もう少し、眠っていろ」

 聖が言うと、佳乃はうなずいて瞳を閉じた。手に触れる妹の身体が妙に重たく感じる。…いつの間に、こんなに重くなっていたんだろう。

「ご迷惑をおかけしました」

 少女と巨体の男性に、聖は深々とお辞儀する。

「その子は危険ですよ」

 少女が言って、聖はそれにうなずく。そんなことは分かりきっていることだった。京都に行ったあの日から、佳乃の中に目覚めたもう一人の佳乃。

 唄のような一節を繰り返し、そして……。

肩に手を当てると、骨が強くきしむ。

「それでも、この子は私の大切な妹なんです」

 携帯電話を取りだすと、聖はどこかに連絡を入れる。

「和樹君か。私、聖だ。佳乃が見つかった。気を失っているようで、私一人の力じゃ運ぶことができない。悪いがちょっと神社まで来てくれ」

 電源を切り、夜風になびく佳乃の髪を、そっと撫でる。

「それじゃ、わたしたちもそろそろ。…あっ」

 坂道を下りかけていた少女が、何かを思い出したように道を駆けあがり聖のほうに振り向く。

「自己紹介忘れてました。わたしは。で、こっちの大きい人が。それじゃまたどこかで」

「おい、なにやってる行くぞ」

「はいはい」

 夜の闇の中、二人の姿が小さくなっていき、やがて見えなくなった。

「紗衣と……蓮鹿……」

 名前を確認するように、聖がつぶやく。

 一体何なんだろう……この町の住人でもなさそうだし、それに何より、あの尋常ではない状態の佳乃を目の当たりにしておきながら、取り乱すようなこともなく、さも当然のことのように物事を行い、そして去っていった。

ひょっとしたら、彼らは佳乃の不可思議なあの現象について、何か知っていたのかもしれない……。そう思うと、彼らが帰っていくのをただ見ていただけの自分に、少しだけ後悔の念を覚える。

 和樹と美凪が神社に顔を現したのは、それからまもなくだった。

 

 

 その翌朝。夏の陽射しに和樹は目を覚ます。

 目を開くと同時に飛びこんでくる、射すような光が目に痛い。目を細めると、どこまでも広がる夏の空が、とても狭いもののようにも思えた。

 佳乃がどうして神社であんな風に倒れていたのか、結局聖は教えてくれなかった。けれど理由がなんであれ、とにかく佳乃が無事に見つかってよかった。佳乃を診療所まで送り届けると、和樹はそのまま駅舎に戻って、気がついたら夜が明けていた。

「…おはようございます」

 優しい陽だまりの声。寝転ぶ視線の先で、美凪に覗きこまれていた。

「…なんで?」

 言って、少し考えて。

「…ああ……そうだったな……」

 小百合が娘のことを忘れてしまった以上、もうあの家には美凪の居場所も、みちるの居場所もなかった。美凪は家出をしてきたと言っていたが、実際には家を出る以外の選択肢は、残されていなかったのだろう。

『…時間……ありませんから。母の夢は終わりましたけど、まだ私の夢は覚めていませんから。だから夢の終わりまでは……、できる限り望んで一緒にいたい。…私は……私にとって大切なひとたちと一緒にいることが大好きですから』

 そうして、和樹と一緒に駅舎に寝泊りすることにした。

けれど、みちるはもう……。

唇をかみ締め、瞳を閉じる。

「みなぎ、おかえりなさーい」

 幻聴まで聞こえてきた。みちるはどこかに消えてしまった……、それを美凪に、しっかりと伝えなければいけないのに……。

「…ただいま、みちる」

 ただいま? いま、ただいまって言ったのか?

 うっすらと瞳を開く。美凪の胸に頬をすり寄せながら喜ぶみちると、その頭を愛おしそうに撫でる美凪の姿がそこにはあった。幻では、なかった。

「にゃはは。やっぱり、おねがいしてよかったぁ」

「…お願い?」

「うんっ。美凪が早く帰ってきてくれるように、星の砂におねがいしたのっ」

 変わりばえしない、いつもの日常。ただ……その日常が、今目の前に広がっているこの光景が、とても不可思議で……。

「みちる、お前本当にみちるなのか?」

「うん? 和樹どうしたの、みちるはみちるだよ」

「いや……、なんでもない」

「むむぅ、変なの」

 夜になって、学校の屋上に行って、三人で空を眺めていた。

「…あれがキリン座で……あっちは小熊座」

「にゃはは。きりんさんとこぐまさんは、なかよしこよしだね」

 みちるは昼間からずっと騒ぎっぱなしだった。美凪と一緒にいられるこの時間が、よほど嬉しいのだろう。

 そんなみちるを、美凪は優しい眼差しで見つめていた。時折、みちるの存在を確かめるように、みちるの頭を優しく撫でる。そのたびみちるは幸せそうに笑う。

良い光景だった。ずっと見つめ続けていても、決して見飽きることのない光景だと思った。夢の中の光景なのではないだろうか。そう思えてしまうほどの、安らかな温もり。

…美凪が言う夢の終わりが、いったい何を指すものなのかは分からない。

でもたとえこれが夢であったとしても、夢の終わりなんて必要ないと、俺は思っていた。少なくとも、いまこの時だけは……。

「…雲がたくさん流れています」

 風に身を任せるようにして、真夜中の夏の匂いを楽しむようにして、美凪はそう言った。

「…和樹さんは……この町を出たいと考えているのでしょうか」

「そうかもな」

 曖昧な言葉を返してみると、美凪は寂しげにうつむき、あの星の砂をその手に握り締めていた。

「寂しいと思ってしまうのは、いけないことでしょうか……別れるために出会うことを……寂しいと思ってはダメでしょうか」

「…美凪」

 泣いているのかと、そう思った。

「ダメってことはないだろ」

 空に視線を移しながら言った。目をそらしたわけではない。悲しみを受け止めたくて、空を探した。

「…そうでしょうか……」

「別れが寂しくないと、せっかくの出会いが味気ないだろ」

「…そうかもしれません。…でも寂しさは足枷にしかならないから、…そこから一歩も動けなくなってしまうから、…行くことも戻ることもできないのは……悲しみでしかないから……」

 潮の名残を残す風に、葉擦れの音がさらさらと鳴る。

忘れかけていた想い。それは、永遠ではないかぎり、いつかは訪れる別れ。

それはこの日常でさえ例外ではない。別れと背中合わせの日常が目の前にあって、毎日をその中で過ごしている。いつかは終わるとわかっている日常。

どんなに素敵な夢であろうと、どんなに楽しい日常であろうと、いつかは終わる。結局は名前が違うだけで、両者のその根源にあるものは、全く同じものなのかもしれない。

人はいつだって夢の中にいる。夢も現も何一つ変わりはない。だからこそ夢が終わるとき、その先には一体何があるのかを知りたいと思うのだろう……。

「そんなの……しらないほうがいいよ……」

 声を挟んだのはみちるだった。

 夢の終わり、いずれそれが訪れることを知っていても、それでもみちるは戻ってきた。せめて夢が終わるまでは、美凪の隣にいたかったから……。

 町外れの小さな古小屋。草と木と、わずかの夏の花々の匂いが満ちる、そんな場所。みちるの目の前にいるのは幼い少女と、ずっしりとした巨体の男。

 紗衣と蓮鹿。それが、二人の名。

「会わないって……みちる、本当にそれでいいの?」

「…だって、仕方ないでしょ。みちると一緒にいれば、みなぎはいずれ……」

 あの日、黄昏色に染まる空の下を走り出したあの日。みちるは気づいてしまったから、自分が何者であるのかを……。

「みちるが望むなら、わたしはそれでもいいけど……」

「みちるはみなぎと一緒にはいられない。だってあそこは、みちるのいるべき場所じゃないから……」

「それで、お前はどうしたいんだ?」

 腕を組み、壁にもたれかかるようにして、蓮鹿が言う。

「お前のいるべき場所。そこにしかお前はいちゃいけないのか? そこに居たいという気持ちがあるのなら、それだけで十分だろ。俺はここが俺のいるべき場所なんて考えたことは一度もない。だが、俺はここにいる。結局はそうゆうことだ」

「それって蓮鹿がわたしの側にいたいってこと?」

「はっ馬鹿か、そうじゃねえ」

 鼻で笑って、めんどくさそうに言葉をこぼす。

「あぅぅ、馬鹿って言われた……馬鹿に馬鹿って言われたよぉ」

「気持ち悪いからそのぶりっ子の真似はやめろ」

「もう、ノリが悪いなぁ相変わらず」

「それで、どうするんだ?」

「………」

 みちるは瞳を閉じ、じっと何かを考え続けていた。そして、再び開かれた眼からは、もう迷いの色は消えていた。

「…決めた。みちるはやっぱり戻るね。みちるがいないときっとみなぎが寂しがると思うし、みちるもみなぎがいないと寂しいし」

 だから、みちるは戻ってきた。夢の終わりなんて関係ない。幸せな記憶。みちるという命が生きた、その証。それだけは残したかったから。

 

 

 青空の下。夏の陽射しとセミたちの声。陽炎の向こうに見えるのは、三人の男女の姿。ふわっとシャボン玉が宙に舞う。数日振りのシャボン玉。優しい光を放ちながらクルクルと回転し、漂い続ける虹色。

 美凪が綺麗なそれをいくつもいくつも生み出して、でもみちるはうまくつくれなくて、うなりながらストローで石鹸水をぐしゃぐしゃと掻きまわして、和樹は真剣な顔でストローに息を吹きこんで、あたりにシャボン液を飛び散らせる。

 懐かしい光景。それぞれがとても楽しそうで、そこに戻ることができたことを、素直に喜んでいるようで、けれどそれは、とても儚いものに見える。セピアに色あせた、遠い思い出の中の光景に見える。

 思い出の中…。

 夢の中…。

 いつかは終わる夏の情景が、儚い陽炎のようにゆれていた。

 




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