Feather 第六幕 星の砂
見上げた夜空。黒の下地にちりばめられた、雫のような金色。幼いころ、父と一緒に見ていた光景。私の頭上には、それが広がっている。
変わらず、今も……。
学校の屋上。そこで美凪は一人星空の下にいた。不意にこみ上げてくるのは、幼い日々の記憶。
『ほら、見てごらん美凪。あれが射手座だよ』
父の優しい声。家までの道、手を繋ぎながら私に星の話をたくさん聞かせてくれた。今も鮮明に思い出すことが出来る、父の声。
『じゃあね、じゃあね、あれはなにざ?』
仕事を終えた父を、駅まで迎えにいくのが私の日課だった。駅でしばらく星を眺めて、手を繋ぎながら星の話をして家に帰る。私は、優しい父が大好きだった。そして、その父が好きだった星の光を、私はとても自然な形で好きになっていった。
『美凪、いいことを教えてあげようか』
ある夏の夜。いつものように手を繋ぎながら、星を見上げて家に向かっていた。父は私に微笑みかけながら言った。
『星はね、人の心を綺麗にしてくれるんだよ。星の一つ一つに神様が住んでいて、私たちを見守ってくれている』
そう教えてくれた。とてもステキな話だと思った。
星を見ていると、優しい気持ちになれた。どんな嫌なことも忘れることが出来そうな気がした。
『汚れた心を星が綺麗にしてくれるんだよ……』
そう言った父の目は、とても悲しげだった。
私は、父の心が汚れているなんて考えもしなかった。むしろ、そんなことを考えた私の心のほうが汚れていると思った。だからお願いした。星に、私の心が綺麗になるようにと……。
「私の心は、綺麗になれたのでしょうか、和樹さん?」
目の前の、一人の男性に問いかけた。たった数日顔を合わさなかっただけなのに、まるで、数十年ぶりに再会したような、そんな錯覚さえ覚える。
和樹は何も言わなかった。何も言わずに、ただ美凪の横に立って、空を見上げていた。どこまでも広がって、水平線を境に海とひとつに交わる空。泳いでいけば、いつかは辿り着けそうな空。風の音を聞きながら、二人はそれを見上げていた。
「…やっぱり……話しておくべきでしょうか」
幾つかの時を見送り、やがて美凪はつぶやくように口を開いた。
「…そうだな。一人で考えこんでいるよりは、少しは楽になるかもな」
和樹は美凪を見つめ、ゆっくりと腰をおろした。なんとなく、話が長くなってしまうのを感じとったのだろう。美凪もそれにならって座りこむ。
「…楽に……楽になってもいいんでしょうか……私」
「かまわないだろ」
「…でも……ご迷惑ではないでしょうか」
「どうして?」
「…だって、これは私個人の問題ですし……」
「お前個人、か。案外そうでもないかもな……」
言って、空を仰いだ。美凪の不思議そうな表情に、和樹はわずかに口元を緩ませる。
「いや、なんでもない。続けてくれ」
「…はい」
未だ納得できていない様子だったが、和樹がそれ以上何もいう気がないことを悟ると、美凪は言葉を続けた。
「…私が母にみちると呼ばれたこと……驚かれましたか?」
彼女の髪が、風にもてあそばれるように揺れる。
「ああ、さすがに……。あれは、どういう意味だ」
「みちるは、私の妹の名前なんです」
「妹?」
「…私には……妹がいるはずでした。…みちるという名の……大切な妹がいるはずだったんです……」
それは、優しくも悲しい過去の物語。せつない思い出の物語。賑やかな家、暖かな両親に育まれた幼い日々。そして、生まれてくることを祝福されるはずだった『みちる』という名の妹。『みちる』が生まれてくることで、また幸せがひとつ増えるはずだった家。
「…でも……みちるは生まれてくることができなかったんです。…母はみちるを、流産してしまいましたから……」
「………」
和樹は何も言わなかった。何も言えなかった。
「…それからなんです……母が夢の中を生きるようになったのは。…母はみちるを流産したことで、…心を病んでしまいました。…私……お父さんっ子だったんです……いつも父と一緒にいて……いつも父と遊んでいました。…母はときどき、そんな私たちを見て寂しそうな顔をしていました。…でも私は……母のことも大好きだったんです。…父のことも母のことも、大好きでした。それを母に伝えてあげたいと、ずっと思っていたんですけど……でも伝えられなくて、…伝える術を見つけられなくて……伝えなくても気づいてもらえるはずで……でも、…私の想いは伝わってなかった。…きっと、母は疎外感を感じていたんだと思います。温かかったはずの家、仲良しだったはずの家族。でも母は、その中で一人、きっと……寂しさを抱えていたんだと思います。…その寂しさを埋める役目が、みちるにはあったんです。…でもそのみちるを失って……想いは行き場をなくして、結局……母は夢を見続けることを選びました。そして、その夢の中では……私はみちるとして生きていかないといけませんでした。…そうしなければ……母は私を受け入れてくれなかったんです。…そして、私もそのことを受け入れました。母に寂しさを抱かせてしまったのは、私の罪ですから……私にできることは……それだけでしたから……でも、その夢も、もう終わりました」
風が凪いでいた。どこまでものびゆく空、流れるはずの雲が、いつまでも同じ場所にたたずんでいた。
「以前から……傾向はあったんです。ずっと通っていた精神科の先生のおかげで、母は徐々にですが回復に向かっていましたから。…そして……つい先日、母はお布団の中で夢を見たそうです。眠りによって訪れる、本当の夢。…その夢の中で……母はみちるの死を受け入れました。お医者さんによれば、それは…よくあるケースなんだそうです。夢の中で現実を知る。そして……夢を見ることで現実に目覚める。…とても奇妙な感じですけど……母の夢は……そうして突然終わりを迎えたんです。…永かった夢の終わりは、とてもあっけないものでした。…本来なら……それは喜ぶべきことなんでしょうけど、でも……私は素直に喜ぶことができなかった。私の心は、綺麗にはなれなかったんです」
悲しみの色。美凪のその表情に、「どうしてだ?」っと、和樹はその理由を投げかけていた。
「…次の日の朝。夢から覚めた母は……私を見てこう言ったんです。『あなた誰?』って」
美凪は笑っていた。それはまるで、道化のようで……。
「…母の中からみちるがいなくなると同時に……私は居場所をなくしてしまったんです。私はずっと……永い間みちるを演じてきましたから……、いまさら母の前で、いるはずのない美凪に戻ることも叶わない。私は誰でもなくなってしまったんです。…薄々気づいていて、それなりに覚悟はしていたんですけど……やっぱりショックでした」
金網越しに見上げる空。手を伸ばすことすら叶わない、遥か遠い高み。
「だから、ここで自分の居場所を探してたのか?」
「…違いますよ。…私は……ここでずっと終わりを待っていたんです」
「終わり?」
「…みちるとして生きてきた……私自身の夢の終わり」
夜の闇の彼方を彷徨うように、一羽の鳥が飛んでいた。
「…私の翼は……もう飛ぶことを忘れてしまったんです」
その鳥を見つめ、悲しげな声を美凪はもらす。
「…私はずっと、羽根ばたく真似だけを繰り返してきましたから……いつの間にか空の広さも……そして大地の温もりさえも忘れてしまいました」
口元を緩めた表情は、とても自虐的なもののように見えた。
「…飛べない翼に、意味はあるんでしょうか?」
言って、美凪は首を左右に振り、自らのその考えを否定する。
「きっと何の意味もなくて……空にも大地にも帰ることができず……彷徨うだけなんですよ。…あの鳥のように……私はいつまでも彷徨うことしかできないんです。でも、それでいいのかもしれません。だって私は……ここにいるはずのない人間ですから……」
何かを言わなければいけない、和樹はそう感じていた。その時、その瞬間、夕暮れにたたずむことしか知らない少女に、何かを伝えなければいけないと、そう思った。何かを伝えなければ、触れることすら叶わない。そのまま、どこかに彷徨って、消えてしまいそうで……。
「美凪、居場所がないなんて、そんなこと言うなよ。おまえを……遠野美凪を待ってる奴がいるんだから、だからそんな悲しいことをいうなよ」
本当は、自分のことを伝えたかった。生まれたばかりで離ればなれになった、そんな兄がいたことを。けれど怖くて、今のままの、この関係が崩れてしまうのが……それが怖くて、何も言うことはできなかった。
それでも、美凪は少しだけ笑ってくれた。星粒を抱いた夜空を、翼のように背中に受けて微笑んでいた。
それから少しして、軽快な音楽が屋上に鳴りだす。和樹はそれが自分の携帯電話から発せられているものだと気づくと、慌てて通話と書かれたボタンを押す。
相手先の名前は霧島聖と書かれていた。そういえば、佳乃を探している途中だったことを思い出す。
(和樹君か。私、聖だ。佳乃が見つかった。気を失っているようで、私一人の力じゃ運ぶことができない。悪いがちょっと神社まで来てくれ)
「神社? 神社ってどこだよ」
聖はかなり焦っているようで、用件だけを伝えると和樹の言葉も聞かず、すぐに携帯を切ってしまう。あとに残ったのは、ツーツー、という電子音だけ。
「…なにか……あったのですか?」
きょとんとした表情で美凪が言う。
「ああ、実は佳乃がな」
昼間の一件を説明すると、
「…それなら、私が神社まで案内しましょう」
言って、ドアノブを回し二人は屋上を後にする。
神社に行くまでの間、美凪の頭の中にはぼんやりと思い描いていた光景があった。父と、母と、三人で一緒にいた、幼いころの思い出。
当時の私には、居場所があった。食卓には三つの椅子。父と母。そして、私の椅子。私たち家族は、夕食を毎晩必ず三人で食べる、そんな仲の良い家族だった。胸を張って人に自慢できるほど、幸せな家族だった。
そんなある日、夕食を食べに食卓へ向かうと、そこには小さな椅子がひとつ新たに用意されていた。とてもかわいい椅子で、私はそこに座りたかったけれど、小さすぎて無理だった。そして、不思議そうにその椅子を見つめていると、母が言った。
『もうすぐ、生まれてくるからね』
そう。母は、その時、私の妹を身ごもっていたのだ。
嬉しかった。ごはんは、きっとたくさんで食べるほうが美味しいに違いない。私は母の隣においてあった小さな椅子を、自分の横に頑張って移動させた。私と妹が並び、正面には微笑みを絶やさない父と母。私は、妹に仲の良い両親の姿を見せてあげたかった。
『ここがあなたの家なのよ』
そう伝えてあげたかった。一日も早く。
妹の名前は、『みちる』と決定した。家族会議で決めた。私たち一家は、いつだって、何だって、全員で話しあって決めた。もちろん幼い私にだって発言権はあった。
『それが家族ってものだよ』
父は微笑みながら、いつもそう言っていた。
私は、父の口から出る『家族』という言葉が好きだった。とても安らかで、暖かな気持ちになることができたから、私は大好きだった。
生まれてくる妹の名前。『みちる』には、こんな意味があった。
『あなたたちの未来が、いつまでも美しい凪にみちていますように…』
そう母は言ったけれど、幼い私に、その意味はよくわからなかった。でも、とてもステキな名前だと思った。
『美凪』と『みちる』
並べて声に出すと、私はとてもまろやかな気持ちになることができた。早く生まれてほしかった。だから、私は毎日のように『早くみちるをつれてきて』と母にせがんだ。
『大丈夫よ。もうすぐ神様がつれてきてくれるからね』
母は、そう言って私の頭を優しく撫でてくれた。
そういえば、私の家にはいつも同じ場所に一枚の絵がかけられてあった。
『これはね、神様の絵だよ』
父はそう言っていた。
その絵に描かれていたのは、背に羽根を持つ女の子だった。天使とでも呼ぶのだろうか、それはとても綺麗な女の子で、私はその絵が大好きだった。きっと、この女の子がみちるを連れてきてくれるのだ。
私は、みちるとその女の子に会える日を心待ちにしていた。みちるは妹に、女の子にはお友達になってもらいたかったから。
………。
……。
…。
それからしばらくして、父は家を出ていった。
母がみちるを流産してから、家では父と母がいつも言い争いをしていた。
家を出ていくとき、父は私に一緒に行こうと言ってくれた。だけど、幼心に母を一人おいていくのはかわいそうに思えたので、私はこの家で父の帰りを待つことにした。
「そうか。お母さんをよろしくな」
優しく私の頭を撫でながら、父は最後に小さなプレゼントをくれた。
それは、かわいい小瓶に入った砂だった。
「これはね、星の砂というんだよ」
これをもっていると、幸せになることができるんだと教えてくれた。だから私は、その星の砂を宝物にした。幸せになれるなら、父はいつか帰ってきてくれるのだろう。私にとっての幸せは、この家で優しい両親とともにいることだったから……。
だけど、もう父が帰ってくることはなかった。
毎日のように駅前へ父を探しにいったが、会うことはなかった。
悲しかった。星の話を、もっとたくさん聞かせてほしかった。星の砂を持っているのに、どうして父は帰ってきてくれないのか。私は、自分の心が汚れているから幸せになれないのだと思った。
それ以来私は毎晩のように星の砂を持って、駅前のベンチから星空を眺めた。私の心を綺麗に清めてほしい。そうすれば、父は帰ってきてくれる。母も、真夜中に一人で泣くことはなくなる。またみんなで楽しく暮らせる。母よりおいしいハンバーグを作って、父を驚かせよう。みんなでおいしいご飯を食べたら、きっと楽しいに違いない。
幸せになれるに違いない。
しあわせになれるにちがいない…。
シアワセニナレルニチガイナイ……。
父が私の知らない遠い町で、母以外の女性と結婚したと知ったのは、それからずいぶん後のことだった。