Feather 第五幕 夢の欠片

 

あれから三日。みちるはいまだ見つからないでいた。

考えてみれば、あいつとは駅でしか会ったことがない。だから、どこに行けばあいつに会うことができるのか、そんなことは全く検討もつかなかった。

『わたし、もう行かなきゃ』

 みちるの最後の言葉が脳裏に浮かぶ。あいつは一体、どこに行ったのだろう。

『みちる』

 美凪の母親、小百合は確かにそう言った。自分の娘をみて、あったこともないはずの、赤の他人のであるはずの、みちるの名を口にした。それはいったい、何を意味しているのか……。

 結局、何の進展もないままに時間だけが流れていく。診療所の待合室のソファーで、和樹は頭上を流れていく雲の行方を、退屈そうに目で追い続けていた。

「あー、ひまひま星人さんまた来てる」

「悪かったな。ひまひま星人で」

 この三日で起きたことといえば、せいぜいこいつ、霧島佳乃と知り合いになったことくらいだろう。

 二人のいなくなった駅、そこにかわりに現れたのが佳乃だった。黄色いバンダナをちらつかせながら、魔法を使えたらっと、とぼけた事をつぶやく佳乃に会話をあわせていくうち、しだいに二人は打ち解け、そして今に至る。

「ひまひま星人さんには何か仕事とかないの?」

「さぁな、ないんじゃないのか」

「甲斐性なしなんだね」

「こう見えてもまだ十七だ。本当なら学生の身分なんだよ」

「え、じゃあどうして学校に行かないの?」

「親父に付き合わされて旅をしているんだ。ま、勉強なんて元々嫌いだったから不満はないけどな」

「ふぇー、旅をしてるんだ。それじゃ、往人君と一緒だね」

「誰だ? 往人って」

「ちょっと前からこの町に来てる大道芸人の人だよ。最近はあんまり見かけなくなっちゃったけど、五日くらい前までは、毎日診療所の前で人形芸をやってたんだよ」

 ガチャン、という受話器を叩き落す荒々しい音が診療所内に響いて、二人は驚いて音のほうに振り向く。

「おかしい……これでもう何日目だ……」

 指で机をとんとんと叩き、診療所唯一の医師、霧島聖は落ちつかない様子でそんな言葉をこぼしていた。

 額から垂れていく汗が頬に伝っているのに、それすらもふき取ろうとしない。聖の表情は、和樹でも簡単に読みとれるくらいあせって見えた。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 佳乃が尋ねると、

「繋がらないんだよ! 神尾さんの家に、電話が!!」

 はき捨てるように、聖は言った。言葉をぶつけられた佳乃は思わず、身体をびくっと大きく震わせる。

「あ、…すまん佳乃。そんなつもりで言ったんじゃないんだが……」

「ううん、大丈夫。それよりも電話って?」

「佳乃が出かけているうちに、一度観鈴ちゃんがうちに運びこまれてな。癇癪は心の病だから、いつまでも診療所にいても仕方ないだろ。だから家に戻るように言ったんだ。だがそれっきり、向こうからその後の容態の話についての電話は全くこない。気になってこちらから毎日電話してみてはいるんだが、…さっき見たとおりだ」

 苦々しく、聖は唇をかみ締める。

「それなら、直接見に行けばいいんじゃないのか?」

 すかさず和樹が口を挟む。

「その、神尾さんって言ったか? 電話で連絡がつかないのなら、家に行って実際どんな容態なのか、直接見てこればいいじゃないか」

「ん、ああ……それはそうなんだが……」

 ちらりと聖が佳乃に目を送る。

「じゃ、見てこようか。和樹君とポテトと、みんなで」

「お、おい。佳乃」

 引きとめようとする聖の手をすり抜けると、佳乃は和樹の手をにぎりしめ走りだす。残された一人の医師は、自らの首に巻きつけられた真っ白な包帯に手を触れると、深いため息をこぼす。包帯のその下に、今もありありと残り続けている、手形のような深い痣。

「何ごとも起きなければ、いいんだがな…」

 

 

「お姉ちゃんは過保護すぎるんだよ。あたしだってもう子供じゃないんだから、そんなに心配することなんてないのに」

 商店街を抜け十字路の交差点に差しかかったころ、海からの潮まじりの香りが、深まる夏の気配を運んできていた。

「嫌いなのか、姉さんのことが」

「ううん、そんなことはないよ。…優しくて強くて頼もしくて……、すっごく大好き。だけど……」

「だけど?」

 妙に言葉をつまらせて話す佳乃に疑問を感じて、思わず和樹はそう聞きかえしていた。

「お姉ちゃん優しすぎるから……、今だって観鈴ちゃんや遠野さん、それにうちに来る沢山の患者さんみんなを、毎日毎日世話してあげてさ、あたしはお医者さんじゃないから、お姉ちゃんのお手伝いなんて全然できなくて……、せめて自分のことくらいは自分でしっかりやろうって思うんだけど、いつもお姉ちゃんに助けられて……」

「助けてあげたいのにいつも助けられてばかりで、それが姉さんの負荷になっているかもしれないってことか」

 和樹が言うと、佳乃は小さく頷く。能天気に見えても、彼女も彼女なりにしっかりとした考えは持っているようだった。

「そこまで気に病むこともないだろ」

「そうかなぁ」

「お前が思ってること全部、お前の姉さんに打ち明けてみたらどうだ? 俺ならその気持ちだけでも十分に嬉しいと感じるけどな」

「そっか、そうだね」

 気を取りなおしたのか、微笑んで歩幅を早める。「早く早く」と佳乃に急かされ、自然に和樹の足どりも早まっていく。

交通量は次第に少なくなっていき、車のエンジン音が遠ざかっていくと、瓦の屋根が左右に連なっていく長い直線に出た。それからしばらく歩いて、佳乃が立ち止まる。和樹もそれに合わせて歩みをやめた。

神尾。表札にはそう書かれていた。

「到着―」

 嬉しそうに佳乃が言う。

「観鈴ちゃんいるかなー」

 玄関に手をかけて、古そうなその戸を開こうとする。

ガチャ。

 無機質なガラスの揺れる音が、一度だけ大きく響く。鍵が掛かっているらしく、何度かガチャガチャと近所迷惑な音を立てて、玄関先にきていることを中に向けてアピールしてみたが、鍵の内側から返事が返ってくるような様子はなかった。

「留守みたいだな」

「うーん、どこ行っちゃったんだろ」

「お前の魔法ってやつで探せないのか?」

「あたしの魔法はそうゆうのとは違うから無理だよ。それに、まだ使えないし」

「まだ使えないって、それじゃいつになったら使えるようになるんだ?」

「大人になったら、かな」

「ずいぶんアバウトだな。まあいいか、それじゃ行くぞ」

 興味がそれたので適当に言葉を流し、玄関をでる。

「わわわ、ちょっと待ってよ」

 佳乃が慌てて足を走らせ、それに続く。

 夏空の下。アスファルトを焦がす太陽の熱が周囲に充満していた。

「さて、とりあえず留守だったことをあの医者に報告しに行くか」

「そうだねー、これだけ暑いとさすがにあたしもバタンキューだよ」

 佳乃の足元を付いてまわるポテトも、もこもこの体からピンク色の舌をだらんと地面に垂らして、必死に熱を外に逃がそうとしていた。

 ぼんやりと周囲を見回すと、武田商店という巨大な看板が目に入る。店前にはオアシス、もとい自動販売機が一台備えつけられている。

 和樹が目を輝かせてそれを見ているのに気づくと、

「あれは、やめておいたほうがいいよ……」

 佳乃がそう口を挟んだ。

「は? なんでだよ」

「見れば分かるって」

 首を傾げながら自動販売機に近寄ると、和樹はその言葉の意味を身に染みて理解することとなる。

 ウインドウガラスの内側に飾られたそれぞれの紙パック。

『ドロリ濃厚 ピーチ味』

『ドロリ濃厚 カシスオレンジ』

『ドロリ濃厚 キウイ&マンゴー』

『ドロリ濃厚 りんご味』

『ドロリ濃厚 アボガドメロン』

 冗談みたいな名前が連なっている。

「佳乃……これは……どんな味なんだ……?」

 恐る恐るたずねる。

「喉につまるゼリー、かな……」

「………」

 そんなものを飲むほどチャレンジャーでもなかった。財布を取り出そうとするのをやめて、手をポケットから外に出そうとすると、こつん、と上着のポケットの中の手が何かに当たる。

取り出してみるとそれは小瓶だった。美凪から渡された星の砂。触れた瞬間、悲しそうな人影、遠野美凪の人影が脳裏をかする。

最後に見た彼女の長い黒髪は、哀愁を漂わせていた。痛んだ心で、苦しみを一人きり背負おうとしていた。それが何故なのかは分からない。もしかしたらあそこに行けば、美凪の家に行けば何かが分かるかもしれない。

「佳乃、悪いけど先に診療所に帰っててくれないか。少し寄るところができた」

 返事も待たずに和樹は美凪の家へと走りだしていく。悲しみの正体、美凪とみちる。その答えが、そこにはある。それは胸騒ぎのような、予感のような。

右手には、願いの込められた小さな小瓶。

 陽の光を浴びて透きとおる青い光が、握った拳から漏れていた。

 遠野と書かれた表札。隣家の庭には、縁側で昼寝をする猫が二匹。軒先の木立からせわしなく響きわたる、セミの鳴き声。遠くからは子供たちの楽しげな声。ありふれた、田舎の夏休みの情景。

 呼び鈴を鳴らすとかちゃっとわずかに扉が開いて、隙間から小百合が顔を覗かせる。

「ちょっと用事があるんで、美凪を呼んでくれないか?」

「…みなぎ?」

 首を傾げ、不思議そうにそうつぶやく。

 やっぱりか……。落胆して、娘の名前を変えてみる。

「みちるのことだよ」

「…みちる?」

 返ってくる返事は同じだった。わけが分からない。この間は美凪のことをみちると呼んでいたくせに、まるで初めて聞いた名前のような言い方だ。

頭を掻いて、湧きあがる苛立ちを抑える。

「たくっ、家にいないならいないで、最初からちゃんとそう言えよ」

 小百合の表情は相変わらずだった。不思議そうに首をかしげて、じっと和樹のことを見つめている。

「…何を……おっしゃっているんですか? うちには娘などおりませんよ。住所をお間違えではないですか」

 不機嫌にそれだけ言って、小百合は扉をばたりと閉める。

「………」

 小百合の言葉の意味を理解できなくて、和樹は何度も何度も呼び鈴を鳴らし続けた。けれど、もう返答はなかった。

 隣家の縁側で眠っていた猫が目を覚まし、和樹をじっと見つめた。ちりん。猫の首につけられた鈴が、一度だけ小さく綺麗な音をたてる。

 

 

 それからまもなくして、和樹は診療所に帰ってきていた。佳乃の姿が見当たらないことに気づいて、そのことを聖に尋ねると、「まだ帰ってきていない」とカルテを書きながら返事を返してきた。

 神尾の家に誰もいないと聞いて聖はずいぶん驚いていたようだが、そんなことは和樹には何の関係もなかった。興味もなかった。

『…こころ……母は……夢を見てるんです』

 いつだったか、美凪はそんなことを言っていた。

「あの、この間の話の続き、遠野小百合さんの病気について、聞いてもいいですか?」

 小百合の担当医だった聖さんなら、ひょっとしたら何かを知っているかもしれない。そんなことを思って、和樹は言葉をこぼした。

「ああ」

「美凪は、母は夢を見ているといっていました。それは、どうゆう意味なんです?」

 長い沈黙。話すべきか、話してもいいのか、聖はずっとそんな風に悩んでいるようにも見えた。カチカチカチっと、時計の秒針がゆっくりと時間を刻み、やがてゆっくりと聖は口をひらく。

「簡単に言えば、遠野さんの母上は心を病んでいたんだよ」

「病んでいた?」

 「いる」ではなく、「いた」と聖は確かにそう言った。

「ああ、ちょうど二日前にその病気は完治したんだ」

「ちょうどって……病気がそんな急に治るなんてことが、ありえるのですか?」

「あるようだな。悪いが精神的な病は私の専門外なんだ」

 精神…そういえば美凪も、母親は身体的には何の問題もないと言っていたような気がする。

「けど、病気が治ったんなら喜ばしいことじゃないですか」

「ああ、まあな……」

「だったら、なんでそんな顔を?」

「…じつはな……治ったことで問題が生じたんだ」

「問題? まさか自分の娘のことを忘れた、とか」

 冗談めかして言う。

「…そのとおりだ。遠野さんの母上は、忘れてしまったそうだよ」

「なっ。忘れたって、まさか……」

 胸騒ぎがして、思わず聖に駆けよる。

「記憶喪失、というわけではないんだ。ただ、夢から覚めたんだよ」

「夢?」

「そうだ。虚無である現実を受け入れきれず作りあげた、偽りの記憶。偽りの思い出。その夢が、終わったんだ」

 美凪は言った。

『…あの人にとって…夢は。…夢の向こう側にはなにもないから…』

 夢の向こう側…つまりは、現実。遠野美凪という少女が生きる現実…そこに何もないと、美凪自身がそう言った。そして、夢は終わった。

何も分からなかった。だけどただ少しだけ、美凪の顔が見たかった。

「佳乃の帰りが遅い」

 時計に視線をやると、聖は机を叩き立ち上がる。

 いつの間にか、空は黄昏色に染まっていた。佳乃には先に帰るように和樹は告げた。それなのに、彼女は未だ診療所に姿を見せないでいる。

 橙に染まる商店街に、二人は佳乃を探して駆けだしていた。

 潮の香りが漂う、誰もいない小さな堤防。砂浜の白をさらう波の線が陽の光を反射させて、それが眩しかった。

 町外れのバス停。太陽に向けて、ぐんぐんと背を伸ばすひまわりが咲き誇る。排気の、鼻を刺すような臭いが印象的だった。

 機能を停止した寂れた駅。数日前まで、三人の男女が集まってにぎやかだったが、今は渇いたシャボン液の後と、ベンチに置かれた旅行鞄が、わずかにその頃の面影を残しているだけ。

そこにも佳乃はいなかった。そして、美凪も……みちるも……。

『この空には、翼を持った少女がいて、悲しみの中に囚われている』

 翼を持つもの。もしその人に出会えるならば、出口を見つけることができないこの迷宮からも、抜け出すことができるのだろうか……。

「行くか」

 つぶやいてその場をあとにしようとすると、目の前に幼い少女がいることに気づいた。プラチナ色の長い髪は腰のあたりまで伸びていて、桃色の小さなワンピースを着ている。初めて見る子どもだった。そして、不思議な感じのする子でもあった。

 この町の子…いや普通の子ではない。なんとなく、和樹はそう感じた。彼女が指を刺して、和樹はその方向へ振り向く。瞬間、突風。

腕で目を覆って吹き抜けていく風が過ぎ去るのを待つ。やがて穏やかな空気が戻ってきて、和樹はそっと瞳を開く。すでに少女の姿はどこにもなかった。

まさしく風のように、影一つ残さず綺麗に消えてしまっていた。

「たしか、あっちには……」

 少女が指差した方角、その先にある建物はたった一つしかない。

 無意識のうちに、和樹は駆け出していた。

 そこに誰がいるのか、不思議とそれを確信しながら……。

 




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