Feather 第四幕 困惑
学校。陽は落ちて、空はすでに夜の面影を抱いていた。
校門の奥にそびえる校舎をぼんやりと眺める。真っ暗。もう職員もみんな帰ってしまったのだろう。全ての光を失い、夜の闇に校舎は飲みこまれていた。
三人で階段を登っていく。美凪が事前に屋上のドアの鍵を借りていたらしく、すんなりと重たい鉄扉はひらき、広がる藍色の空が和樹たちを出迎える。
金網越しに、高い夜空と暗く穏やかな海が見えた。目を移すと人々の営み。生まれたばかりの夜に戸惑うような、小さな町の景色。
足元には、部室から持ってきた天体望遠鏡や星座盤、資料を詰めたバッグが置かれている。だが、一つ不審に思うことがあった。
薄暗くなってはいるが、みちるや美凪がどこにいるかはすぐに分かる。けれど、
「他の部員はどうしたんだ?」
その二人以外には、誰一人見つからない。屋上にいるのは、三人だけだった。
「…他の部員なんていませんよ。天文部は、私ひとりだけです。だから、私が部長さん。…少数精鋭です」
美凪の声は、少しさびしそうに聞こえた。
「意外といないんだな、星を見たがるやつってのは」
「…そうですね。好きな人はいますけど、観測となるとまた違うみたいです」
孤独な夜、孤独な空。たった一人で眺める大好きな星空。彼女は、どんな気持ちを抱いてそこにいたのだろう。
「和樹さんはどうです? ご迷惑ではありませんでしたか、誘ったりして」
「別に……俺も星空は嫌いじゃない。それに、どうせなら駅なんかで見るより、こうゆう高いところで見たほうがいい」
長い旅をしてきた。翼を持つ人を求める旅。それは、自分の意思ではなかった。父親に教えこまれ、それだけが自分の道だと信じてきた。けれどこの町に来て、みちるに出会って、美凪に出会って、少しずつ、信じてきたものに霞がかかっていって……。
それが良いことなのか、悪いことなのか、それすらも自分では分からない。それでも、今、俺の隣には美凪が、みちるがいる。にいたいと、ずっとこのまま此処にいたいと、確かに俺はそう感じていた。
『どんな人にも、たどり着きたい場所があるはずですから』
数日前の美凪の言葉が脳裏をかする。
だとしたら俺のたどり着きたい場所とは、此処だったのかもしれない。
「にょわっー、もうお星様見えてるーっ」
遠くの金網にへばりつきながらみちるが騒いでいた。美凪が持とうとしていた観賞用の機材を手にすると、和樹は無言でそこへ向かう。
「あ、和樹さん。…ありがとうございます」
微かに頬を赤らめながら呟くと、美凪もみちるがいる場所へと歩き始めた。みちるが指さす星の名前を、美凪は次々に答えて言った。それは些細なやりとりだったかもしれない。けれど二人は幸せそうで、一緒にいられる。それ自体が嬉しそうに見えて、和樹はそんな後ろ姿をじっと見守っていた。
ヒューッ。
何かが空に舞い上がる音がして、続いてパンッと弾けるような音。
「…花火か」
金色の輝きに全身をさらされて、和樹は思わず声を漏らしていた。
「…今日は隣町の花火大会ですから。…私の大好きな場所で……、私の大好きな人たちと、…大好きな光景を一緒に見たかったんです」
「みなぎ、みなぎ、大好きな人ってみちるのこと!」
子犬のように尻尾を振ってみちるが美凪に抱きつく。美凪がうなずくと、みちるはさらに嬉しそうに跳ねあがる。
楽しいことを分かちあうことができる。そんな親友がいる美凪のことが、和樹には少しだけうらやましく思えた。
きっとこの星空の下でたくさんの人が花火を見ているのだろう。たくさんの人が、一瞬で消える暖かな光を目で追いながら、幸せに笑っているんだろう。
悲しい光景、さびしい言葉。どこまでも広がる高い夜空に、そんな想いを花火に変えて打ち上げて、それら全ては笑顔に変わる。
「星の砂―星の砂―、美凪がくれた、星の砂―」
ポケットからガラス瓶を取り出すと、それを花火に向ける。みちるは瞳を閉じ、手に持つそれに願い事をした。
願いを叶える星の砂。雫のように……優しく輝く星の砂。
願わくばせめて今夜くらいは、世界中の全ての人々が笑顔でいられますように。そして、こんな幸せな時間がどうかいつまでも、いつまでも続いていきますように。
想いは、高みへ……。
みちるの願いを秘めた光の種はしゅるしゅると空へと駆けあがり、パンッと綺麗な花を満開に咲かせ、遥かなる高みへと想いを伝える。
どこまでも、どこまでも高みへと、駆けあがってゆく。
やがて花火も終わり、辺りはすっかり夜闇の中へと陥っていた。みちるは遅くなったからと走り去っていき、和樹と美凪は、等間隔に並ぶ街灯の明かりの中に取り残されていた。
「…和樹さん、夜道はやはり…危険ですので…、先に駅に帰ったほうが」
「馬鹿か、だったらおまえも危険だろうが。それに、女の一人歩きのほうが男の一人歩きなんかよりよっぽど危なっかしい」
高く澄みわたった夜空の下、二人は肩を並べる。こうして並んでみると、和樹と美凪の歩き方はよく似ている。歩幅、速度、踵を軽く押しあげる癖。育った場所が違っても、環境が違っても、やはり二人は兄妹なのかもしれない。
美凪を一人で帰らしたら危険、確かに和樹の中にその想いあった。が、一番の理由は母親のことだった。商店街で見かけた姿。幼い……赤ん坊だったとき、側にあった温もり。その二つが本当に、自分の考えている通り一つに一致するのか、それを確かめたかった。
「そういえば美凪、おまえ意外と背高いな」
自分の肩にときおり触れる長い黒髪を眺めながら、和樹は言った。
「…たしか、169センチです」
「結構あるな」
「…背が高いと……そのぶんだけ空に近いですから、ちょっとした自慢です」
「空に?」
「人よりも星の近くにいられるから……ちょっと嬉しいです」
夜空を見上げてみると、金色があちこちで光を放っている。
「…今日は星が綺麗です」
誰かに語りかけるような声。その瞳が夜空へと向けられる。まるで何かを願うように、美凪のその黒い眼は、まっすぐに空の彼方を見つめていた。瞬く星々にどんな想いを馳せるのか……遠い輝きは、時に儚くうつる。
家の前に着くと、美凪はついてきてくれたことにお礼を言って、頭をぺこりと垂れた。それからまもなく、家の扉が小さな音とともに開く。
扉の奥から現れたのは、いつか商店街であったその人。
本当に美凪の母親だったのか……。
別にみちるのことを疑っていたわけではないが、自分の目で見ることで改めて、それが真実だと実感した。
「あら、いつぞやは大変お世話になりました」
母親は和樹がいることに気づくとそうお礼を述べた。美凪はなんのことかよく分かっていないようで、きょとんと不思議そうな顔で二人をみている。
和樹が以前に母親と会っていることを美凪に伝えると、不意に、美凪の瞳にさびしげな色が滲む。
「どうした?」
顔を覗きこむように、美凪の感情に探りを入れてみる。けれど感情をほとんど表に出さないその瞳から分かることは、何もなかった。
「それにしても、うちの娘とあなたが知り合いなんてびっくり」
「和樹です」
「うん?」
「俺の名前、獅堂和樹」
「そう、獅堂さんって言うの」
名前を告げてみたが、母親は無反応だった。もう数十年も前のことだから忘れてしまったのだろうか? それともやはり、全ては俺の勘違いだったのだろうか。
和樹は母親の顔をじっと見つめていた。似ている。親子なのだから当然なのだろうが、やはりこの女性と美凪の顔つきは、どこか似ているように思える。…俺はこの人に似ているのだろうか。手鏡でも持っていれば、今すぐにでも取り出して、じっと自分とこの人の顔を見比べているところだろう。
「…さん」
ふと、自分自身の母親の名前を口にする。
「あれ、わたし名前いいましたっけ?」
瞬間、心が震えた。津波のように、感情の波が押し寄せてくる。
目の前の女性の名、小百合。顔も知らない母の名、小百合。その二つが今、一つに重なる。言わなければ、俺が誰なのかを……。
「あ、あの俺っ」
自分でも声が震えているのが感じ取れた。口がうまく動かない。舌を噛んでしまいそうだ。それでも慎重に言葉を選び、目の前の女性、母に伝えようとする。けれど和樹のそんな思いは、小百合の放った言葉によって、一瞬で吹き飛ばされる。
「すいませんねぇ……いつもみちるが大変お世話になってるみたいで」
その瞬間、世界は空白を覚えた。いや、空白と呼ぶにはあまりにも短い時間だった。ただ、確かにそのとき和樹の中の時間は停止していた。
「…みちる?」
焦点の定まらない、まぬけな視線を美凪に送る。彼女は視線を合わそうとしなかった。母の言葉を噛みしめるようにうつむき、微かに体を震わせていた。
「………」
何も言葉は生まれなかった。無意識のうちに、和樹は自分自身に疑問を投げかける……問いかけに、答えはない。
「ほらみちる。早くご飯食べないと、冷めちゃうわよ」
「…うん」
小百合の声に小さく頷き、美凪は扉に足先を向ける。
「待てよっ!」
その後ろ姿に和樹は手を伸ばそうとした。美凪は振り返ることもなく、その手を擦り抜けていった。
ばたん。と、扉が閉まる音。美凪の長い黒髪が、手の届かないところに消えてゆく。しばらくの間、和樹はその扉を見つめ続けていた。
小百合は、確かに彼女のことを『みちる』と呼んだ。『美凪』ではなく確かに『みちる』と。少なくとも和樹が知るみちるはこの場にいない。小百合が冗談を言っている様には見えなかった。だからこそ、沸きたった疑念と戸惑いがいつまでも消えないでいる。
俺のことを全く知らない女性。けれど、俺の母親と全く同じ名を持つ女性。その人は、美凪のことを『みちる』と呼んだ。
…分からないことだらけだった。迷宮を抜けた先に更なる深い迷宮。一体どこまで行けば、出口が見つかるのだろう……。
翌日美凪は駅前に姿を見せなかった。和樹とみちるは一日中待っていたけれど、けっきょく美凪が現れるようなことはなかった。
「んにゅぅー、みなぎこないねぇ……」
一人シャボン玉の練習をしながらみちるが呟く。みちるの元気がないことの一番の理由は、もちろん美凪が来てくれないことなのだが、もう一つ大きな理由があった。
彼女の見続けていた空の夢。その夢が今日変わった。いや、変わったというのは適切ではないかもしれない。空の夢には変わりなかった。だが、今までとは全然違った。
満月のとても明るい夜。みちるは空に昇ろうとしていた。すると声が聞こえてきた。たくさんの声。みんなが、どこかに閉じこめようとしているような……。それは、悲しい夢だった。なぜかは分からないけれど、みちるはその夢を見ているあいだ、ずっと悲しいと感じていた。
だから慰めてほしかった。美凪に夢のことを話して、「…大丈夫」そう頭を撫でてほしかった。それなのに、美凪は来てくれなかった。
「…約束、したんだけどな……幸せな時間……続いて欲しいって……」
ポケットからガラス瓶を取り出すと、みちるはそんなことを呟く。
「来ないなら会いに行ってみるか? 美凪の家まで」
「おうち…?」
「ああ」
「…おうちには……行きたくない」
「どうして」
「えっと……わかんない。みなぎって……ずーっと、おうちの場所だけは教えてくれなかったから……」
「場所、知らないのか」
あの夜、小百合はたしかに『みちる』と呼んだ。もしその名が、今ここにいるみちると関係があるのなら……。
「…きっとね……おしえられないんだよ」
みちるの言葉が、嫌に重々しく和樹の脳裏に響きわたる。
和樹とみちる、二人は商店街をゆっくりと歩いていく。駅にいると美凪がいないという現実が嫌おうがなく圧しかかり、それが苦しかった。
少しでも気を紛らわそうと、寂しさを打ち消そうと、ただそれだけを思って歩き続けた。診療所、小百合と始めて出会った場所。
和樹とみちるは、導かれるようにその中へと入っていった。
「…珍しいな、みちるちゃんと、そっちの人は?」
院長らしき女性が顔を出す。首には真っ白な包帯を巻きつけて、少し苦しそうな顔をしていた。和樹が自己紹介を終えると、女性はソファーに腰を落ち着かせた。何か気にやむことでもあるのか、ときおり、ベッドが置かれた奥の部屋に目をやっている。
「…遠野小百合って人の病気について、いくつか聞きたいことがあるのですが」
「霧島聖だ」
麦茶を飲みながら、女性が一言そういった。それが彼女の名前だと気づくのには、少し時間がかかった。
「さて、遠野さんの病気か…」
聖が言葉を続けようとした瞬間、
「…いや……やだ……」
今までずっと二人のやり取りを見ていたみちるが突然、ぶるっと身体を震わせ、小さく声を漏らす。次の一瞬、勢いよく扉を開き診療所から走り去る。
「おいっ、みちる!」
和樹もそれに続き、慌てて走りだした。残されたのは、医者が一人。目の前の展開に訳も分からないうちに流され、一体何なんだと怒ってはいたが、実はその内心少し安心しているところもあった。とにかくこれで、彼女も患者の看護に専念できるのだから。
患者……霧島佳乃の……。
商店街を必死で走りぬけようとする一人の少女。その後ろ姿を、一人の青年が追いかけていた。みちると和樹。やがて商店街も終わりにさしかかろうとしていたころ、不意に前を走っていた少女の足が止まる。
「にゃはは、和樹ごめん。なんかお医者さんって苦手でさ、つい逃げ出しちゃった」
そんな言葉が嘘であることは明白だったが、みちるのあの尋常ではない態度を見たあとでは、本当の理由を聞くことに抵抗を感じて……。
「帰ろう」
和樹はそう口にすると駅への道を戻り始める。みちるもそれに続いた。もう言葉は交わすことはなかった。それからどれくらいの時が経っただろう、突然みちるが足を止め、空を見上げた。
「ん、どうした。みちる?」
「鳥たちが騒いでる。もうすぐ、大きな風が来るって」
「風?」
「わたし、もう行かなきゃ」
「行くって、おい……どこに行く気だっ」
みちるは再び走り出す。今度は止まることはなかった。まるで、鳥たちに導かれるように……夜の闇の中へと消えていく。
獅堂和樹、彼が目指した場所。たどり着いた場所。そこは終わりなどではなかった。そこから、始まる。
時は流れていく……ゆっくりと、しかし確実に。
全ての人々を巻き込みながら、たどり着く場所を求めて……。
第四幕で第
1パート終了という感じです。元々和樹は往人が使えないので変わりになるキャラが必要ということがきっかけで生まれたのですが、原作のストーリーを意識するあまり、往人とあまり変わらない性格になってしまいました; 和樹が主人公ということで美凪編を原作とは大きく異なった展開に変えたほうが、物語としては面白かったかもと反省気味です。
ここからは駄文
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