Feather 第三幕 双生児

 

みちるは最近夢を見るようになった。それはとても不思議な夢だった。見上げれば自分の上に雲はあるのに、その夢の中では雲は自分の足元を流れていく。雲の隙間から、海の青がちらちらと見え隠れして、そこまでどれくらいあるのかも分からない。ただ、自分はきっと空を飛んでいる。夢の中で、そのことだけはみちるにも理解することが出来た。

「にゅふふ…」

 美凪は静かにみちるの頭を撫でる。その寝顔を見て、美凪の口元が優しく緩む。幸せそうな笑顔。みちるは何か楽しい夢でも見ているのだろうか。

夢、空の夢。この旅の先にあるもの……。

見上げる夏の空は、いつの間にか赤に染まっていた。鮮やかに広がる赤の果てには、深い藍。

「美凪。おまえは、翼を持った人間がこの世にいると言ったら信じるか?」

「…翼……ですか?」

「そうだ、翼。自由に空を掛ける、ヒトとは異なる存在。一般的には神と呼ばれるものに近い」

「…子供の頃、うちにそのような絵がありましたけど……」

 綺麗な夕焼け空。美凪と和樹は、少しずつ互いの間の距離を縮めていく。まるで、ばらばらになっていた時間を埋めていくように。

「…その絵の中には……、背中に真っ白な翼を持つ女の子がいて……私は……幼心に、いつかその女の子と一緒に空を飛びたいと願っていました」

美凪の美しい髪が、潮の香りをふくんだ夕暮れの風に優しくなびいていた。

「…和樹さん……今日も星がたくさん見られそうです」 

 美凪が指さす先、夜の色に染まり始めた山の。あれほど鮮やかに染まっていた夏の空はいつの間にか熱気だけを残し、眠りにつこうとしていた。

永い時間……いつかは終わる……永い時間。

「にゅふふ」

「…わたし、この子を見ていると……とても幸せな気分になれるんです」

 優しい瞳。物心つく前に行方をくらました母の面影。美凪の姿が、そんな母の姿に重なるように思えた。

「…私とみちるは、…ここでこうして一緒の時間を過ごしてきたんです」

 過ぎ去った過去を懐かしむような声で、美凪は続けた。

「…それは……私にとって、とても幸せな時間でした。…そして……今も幸せなんですよ」

 幸せな時間。俺にそんな時間はあったのだろうか。ずっとずっと旅を続けて、今もそれを続けて……。

 小さな夜風が通り過ぎる。首筋に残った暑気が、名残を惜しみながら風にさらされていく。そして、風はやがて無限の星粒を抱いた夜空に帰ってゆく。永遠にひろがる空に帰ってゆく。まるでそれが、自身の目指すべき場所であるかのように…。

 翼を持つもの。それが俺の目指すべき場所。けれど、それは俺自身の意思ではない。だとしたら……。

「どんな人にも、たどり着きたい場所があるはずですから」

 和樹の思いを見透かしたように、美凪は言う。

だとしたら、俺が本当にたどり着きたい場所は、どこなのだろう?

 その夜。和樹は久しぶりに父親に電話を掛けてみた。別に用事があったわけではない。ただ、自分が行ってきたこと、目標としてきたことが、この数日で信じられなくなってしまって、不意に父親の声が聞きたくなった。それだけだった。

 けれど、その日の電話がつながることはなかった。いらついて携帯をバッグに投げ入れると、空を見上げてみる。いくつもの星が、競うように夜の闇の中を輝いている。

「うんしょっと、今日もお星様がいっぱいだねぇ」

 みちるが和樹の隣に腰掛けた。

「みなぎ、どこいったの?」

「部活動とか言ってたな」

 みちるは、「そう」とつぶやくと、ズボンのポケットからごそごそと小さなガラス瓶を取り出す。星の砂だった。和樹もそれに習って星の砂を空に掲げる。月の明かりに包まれたそれは、薄ぼんやりと淡い光を放つ。まるで、願いをその身に優しく包みこむように。

「和樹。これ、ずっと大切にしてもらえるかなぁ。そうすればね、きっとみなぎも喜ぶと思うんだ」

「そうだな。持ってるだけで幸せが向こうからやってきて、願いを叶えてくれるらしいからな」

 冗談めかして言うと、

「幸せに、なれるといいんだけどね」

 みちるが寂しそうに言う。

 風が吹いた。和樹は、流れる風を目で追いかけてみる。けれど追いかけてみてもその先には何もなくて、何も変わらない。時間は流れてゆく。だけど、変わることはない。いっそ止まることができたなら、流れることを忘れて止まることができたなら……、変われないことへの悲しみも、少しは安らぎを覚えることができるのだろうか。

「みなぎは、みなぎには……幸せになってほしいよ」

傷つき痛んだ心も、少しは癒されるのだろうか……。不意に、本当に不意に、みちるが呟いた。

「和樹、こんなこと聞いたことある? この空には翼を持った少女がいて、悲しみの中に囚われている」

「なっ!」

 和樹は思わず声を失った。親父の言葉、みちるの言葉。その二つがパズルのピースのように、ピタリと一致する。

「ねぇ和樹。みちる、もうかえるね」

「お、おい待てよ」

 手を伸ばす黄昏の向こう。振り返り、大きく手を振る少女の姿が遠かった。

 

 

美凪の家に電話がかかってきたのはその翌日。それは、忘れかけていた出来事をさせる電話だった。

「…はい……遠野です」

 受話器を耳にあててみたが、なぜか相手からの返事はなかった。いたずら電話かと不振に思いながらも、じっと相手からの言葉を待ってみる。やがて、男性の声が聞こえてきた。

(…遠野美凪か?)

「はい…? …そうですけど……」

 妙に冷めた声。冷静というより、何か覚悟を決めたような、そんなふうに思えた。

(今、神尾観鈴の家からかけている。覚えているか、少し前に駅で観鈴と一緒にいた男だ)

「あ、…あのときの」

 数日前、神尾観鈴と一緒に背の高い男性が駅にきた。そのときは結局名前も聞かずに別れてしまった。それ以来美凪と観鈴は出会っていないし、連絡もとっていない。だから、一緒にいたその人と会う機会もなかった。

(観鈴の具合がよくないんだ。観鈴とはあまり親しくないとは思うが、頼む。俺だけじゃどうにもならない。誰かの助けが必要なんだ)

「…神尾さん、また癇癪を」

 助け、電話の相手は確かにそう言った。この人は知らないのだろうか。神尾さんがなぜ癇癪を起こすのかを。誰かと一緒にいるだけで、彼女は泣き出してしまうことを。だから誰も彼女と一緒にいることなんてできはしない。まして、助けるなんてことは……それができれば……私だって……。

美凪が観鈴と出会ったのは、高校の入学式のときだった。式が終わってほとんどの学生が帰りはじめたころ、生徒手帳を落としたと一人の女の子が校内をずっと歩きまわっていた。制服は卸したてのようで汚れ一つない。たぶん、私と同じ新入生なんだろう。

私には、友人と呼べる人がほとんどいなかった。駅に行けばいつもみちるには会えたけれど、彼女はやっぱり子供で、同じ学校に行くことはできない。

学校でのほとんどの時間を、私は一人きりで過ごしてきた。だから、

「…あの、…私も手伝いましょうか」

 その背中に、私は思い切って声をかけた。

「あうぅ。ありがとう」

 その子は本当に困っていたようで、それが心からの気持ちだということが言葉からすっと伝わってきた。たぶん私は寂しかったんだと思う。友人、友達、そんな風に紹介できるような人を、私はずっと探し求めてきた。そしてやっと、そのきっかけを掴むことができた。

 二人でずっと探した。きてまもない学校だったから、どこに何があるかなんてまるで分からない。ちょっとした探検気分。ワックスの匂いが香る真新しい教室。がらんとした広い廊下。長い階段をのぼった先の屋上。色んなところを探してみた。けれど、どこにも見つからなかった。

「…見つかりませんね」

「…うん」

 購買部の前の椅子に、二人腰掛ける。頭上には真っ青な空。澄みわたった、眩しいくらいの陽が降り注いでいた。

「あの」

 女の子が立ち上がる。

「ありがとうございました。一緒に探してくれて。だけど、あとはわたし一人で探すので、もう大丈夫です」

 その言葉を聞いて無言のまま立ちあがると、私は花壇の花を掻きわけて、もう一度探しはじめる。

「あの、本当にいいですから」

女の子が申し訳なさそうな顔で私の手をつかんで止めようとする。けれど、花壇の中に入れた手を休めようとは思わなかった。誰かと一緒に何かを探す。ひょっとしたら、そんな些細なこと自体が私にとって嬉しいことだったのかもしれない。そんなことは、初めてだったから……。

やがて、日が沈みかけたころ。

「あ、…これ」

 青色の小さな手帳を見つけた。表紙をめくる。笑顔の女の子が、小さな写真に写っていた。

「神尾観鈴」

 私は写真の横に書いてあった名前を読み上げる。

「あ、あ、それ」

 興奮した様子で、写真の女の子が走りよってくる。私は写真の女の子、神尾観鈴さんに持っていた手帳を渡した。

「本当にありがとうございます。えっと……」

 そういえば、無我夢中で探し続けていたせいか、お互い名前も知らないままだったことに気づく。私は生徒手帳を見たから名前を覚えたけど、この子はまだ、私の名前を知らないはずだ。少し考えて、

「…遠野美凪です」

 私は自分のことをそう名乗った。美凪。それが私の名前。それを人に教えられることが、とても嬉しかった。

「あの、遠野さん。もしよかったら」

 何か恥ずかしいことでもあるのか、神尾さんは手をもじもじとさせて言った。

「わたしと友達になってください」

 息が止まるくらい驚いた。それは、私が言おうとしていた言葉と一字一句同じだったからだ。そうして、私と神尾さんは『友達』になれた。うれしかった。とても。

…だけど、それは長くは続かなかった。それからまもなくして、神尾さんは私と一緒にいると、泣きじゃくるようになっていった。最初私には意味がわからなかった。どうして神尾さんが泣いてしまうのか、泣いてしまうのに、どうして私と一緒にいたがるのか。ある日、私は神尾さんのお母さんに全てを教えてもらった。彼女の癇癪。そうなる理由。だから私は……私は……。

助ける。それができれば、こんな苦しみを味わわなくてもすむのに……。

(お願いだ、頼――)

 受話器の向こうから聞こえていた声が、不意に遠くなる。

(遠野さん?)

 懐かしい声。神尾さんだった。

「…あの……」

 なんと言えばいいのか分からない。いっそこのまま時間が止まってしまえばいいのに。本心からそう思った。

(大丈夫。わたしは強いから)

 全てを見透かしたような声。

(遠野さんには、何にも迷惑なんてかけないから)

 何か言わなきゃ。そう思っているのに、言葉を忘れてしまったように何も言えない。早く、早く、早く、早く。なんでもいい。彼女を引き止めるための言葉を、何か、何か言わなきゃ。

(じゃあ、また今度)

 ダメ! そう叫ぼうとしたのに、私の口は開かなかった。それからまもなく、ツーツーツー、と受話器からは機械音が鳴りはじめる。

無言のまま受話器を元の場所に戻すと、しばらくその場で立ち尽くしていた。

「どうしたの? 電話、誰からだったの」

 食事の準備をしていた母親が、電話の前から動こうとしない美凪を不思議に思い、声をかける。その声が美凪に届いてるかどうかすら分からない。

「…明日遊ぼうと思ってた子から。…何時ごろに待ち合わせとか、そんなことをちょっと話してました」

「あら、そう。じゃあみちるのために腕によりをかけてお弁当作ってあげようかしらね」

 野菜を炒める香ばしい匂いが漂い始めて、料理が再開される。

彼女は何も知らない。神尾観鈴のことも、遠野美凪のことも。ただ、夢を見続けるだけ。

………。

……。

…。

空が赤く染まり始めていた。遠いひぐらしの声を追いかけるように、足元から長い影が伸びていた。ベンチに腰を掛けながら、和樹たち三人は穏やかな夏の黄昏を追いかけていく。

『空の夢』

 あのとき、みちるは何が言いたかったのだろう。目の前にみちるはいる。だけど、なぜだろう。俺はみちるに夢の話を聞くことができないでいた。それを訊ねたら、三人のこの関係が崩れてしまいそうで……。

「そろそろ日が暮れますね」

 少しだけ寂しそうに、美凪が呟く。

「一日なんて、あっという間だな」

「…えっと……、これからお暇ですか?」

「これから?」

 別にこれといってやることもなかった。そもそも親父からの連絡がばったりと無くなってしまい、完全に身動きが取れない状態なのだ。だからきっと、しばらくこの町にいることになるだろう。

「…では、ひとつ提案です。これから、一緒に学校へ行きませんか」

「学校?」

「はい、一緒に天体観測をしたいと思いまして」

 暮れ始めた空の下を歩いた。昼間の熱気が、微かな名残を残して枯れてゆくアスファルトの上。どこまでも遠くのびた三人分の影。それぞれの背丈に合わせて先端がデコボコとした、滑稽な影だった。

 美凪の髪が風にゆれる。微かな潮の香りをふくんだ小さな風が身にしみて、和樹はここが海辺の町であることを思いだす。耳を澄ますと、遠い波の音が聞こえてくる。それは、海。穏やかな海だった。一陣の小さな風が吹きぬけた後、もう風は吹かなかった。

「和樹さん」

 空を見上げながら、美凪が言う。

「初めてですね。こうして三人で歩くこと」

「ああ、そういえばな」

「…楽しいですね」

 美凪は広い空を見上げながら、小さな微笑みを見せた。夕陽の中に浮かんだその微笑みは、とても綺麗だった。

「…この前話したこと。いつも空を見ている子、という人のことを覚えていますか」

「ああ」

「…その子の家から、今日電話がかかってきました。その子は病気で苦しんでいて、だから助けてくれって、世話をしているらしき人から」

「…それで」

「…電話の相手が途中で変わって、その子が話してくれました。大丈夫だから、心配いらないからって。私、何もいえなかったんです。彼女が話している間中、金縛りにあったみたいに一言も声が出せなくて……」

 震えるような声を漏らす美凪のか細い肩に、和樹はそっと手を触れていた。彼女の苦しみ、それを自分が理解することなんてできないだろう。それでも、少しでもその苦しみを和らげてあげようと、そう思って。

「大丈夫だ。俺がついてる。その子もおれがきっと救ってやる。だから美凪、おまえが悲しむことなんて何もない。おまえの横には、いつも俺がいてやる。なんたって俺はおまえの……」

 遠野美凪。こいつを見るたびに、なぜ俺は母の面影を思い出すのだろう。なぜ、母をこいつに重ねようとするのだろう。ずっと考えていた。そしていま、その理由がわかった。

俺はいつかの父親の言葉を、完全に思い出したから。

『おまえの母親、には双子の赤ん坊がいた。男の子と女の子。そしてその男の子がお前だ、和樹。あの日、蓮鹿が現れた日。俺はおまえを連れて散歩に出かけていた。そして戻ってくると、俺の知っていた景色は赤色に染まっていた。そうして……小百合とはそれっきりだ。蓮鹿が去って、おまえは一人ぼっちになった。だから俺はおまえを育てようと思った。俺と同じ姓、獅堂と名づけて」

 仮に、俺の母が生きていて、この海辺の町で暮らしていたとしよう。仮に、目の前にいるこの美凪という少女が、俺の妹が育った姿だとしよう。そう考えれば、美凪を見るたびに母のことを思い出すのも、照らしあわせようとするのも、その全てに納得がいく。もしかしたら親父はこのことを知っていて、だから俺をこの町に行くよう命じたのだろうか……。

いや、それはいくらなんでも考えすぎか。

「…私、ずっとこうしたいと思っていました。みちると和樹さんと、そして私と……、三人でこうして歩いてみたいと思っていました……」

 長い旅をしてきた。終わりがあることすら定かではない、悲しみを求める旅路だった。悲しい少女の面影を捜し求める旅。そんな旅路の中で、偶然の出会いをした。

海辺の町に訪れた夕凪。三人で歩く夏の夕暮れが、優しく微笑んでいるように感じた。