Dream 第九幕 別れ
結局、診療所からはその日のうちに帰ってきた。
『ここにいても、何も変わることはない。それなら住みなれた我が家のほうがいいだろう』そんな風に聖は言っていた。
『そして、最後の夢を見終わった朝……女の子は死んでしまうの』
母が語った言葉。観鈴が夢の話をするたびに、それが近づいているようで、どうしようもないくらいの恐怖を覚える。けれど、夢を止めることなんて誰にもできないから、俺は観鈴の見た夢の話を、ただ聞いてやることしかできなかった。
その日の夢は、こんな夢だった。
「悲しかった。なんどやってもうまくいかなかった。もう時間がないのに、やりとげなければいけないのに……それなのに、どうしてもうまくいかなかった」
その直後、押し殺した声で観鈴は泣いた。俺にはどんな夢をみているのか見当もつかない。ただ、その夢が観鈴を蝕んでいる。それだけは、確かだった。
堤防、俺と観鈴の始まりの場所。そこで空を見上げる。巨大な入道雲が空を覆っていた。ここからは見えない場所。遥かなる空の高み。今も観鈴はその場所にいるのだ。ひとりきりで。
地上から見上げれば、すべては絵空事だった。どんな事実も知ることはできない。観鈴のなかだけに、空は無限に広がっている。観鈴ひとりが、雲の上をさまよっている。
「ただいま」
「あ、往人さんお帰りなさい」
家に戻ると、ベッドの上で観鈴は雑誌を読んでいた。
俺はその横に座りこむと何をすることもなく、ただじっとしていた。
「往人さん、新しい本に取り替えて欲しい」
「わかった」
デスクの上に置かれていた本を持ち、観鈴に手渡してやろうとする。観鈴が手を滑らせ、ばさっと雑誌がベッドの足元に落ちる。
「わ、ごめん」
「たく、しょうがないな」
観鈴は自分の足元に落ちた雑誌をじっと見ていた。俺はそれを拾ってやると、改めて手渡してやる。観鈴が俺に礼をいうと、セミのざわめきで部屋がいっぱいになる。セミの鳴き声以外に聞こえる音は、ときどき鳴りひびく、ぱらっと雑誌のめくれる音だけ。ただそれだけだった。
観鈴は歩けなくなっていた。無理をすれば動けないことはないが、それでも、家の中を自由に行き来することはもう無理だった。
観鈴の夢は続いていく。
「今日は、旅の夢だった。わたしは旅をしてた。何かを探す旅。森の中を、何日も何日も歩いた。辛かったけど、わたしがんばった。大切な人たちが、側にいてくれたから」
嬉しそうな声。夢のことを話す観鈴は無邪気そのものだ。それが害になっているとは、どうしても思えない。だが…、
『その夢が、女の子を蝕んでいくの』
その言葉が、頭から離れない。
俺は、どうしたらいいのか。ずっと押し黙っていると、
「ねぇ、往人さん、本当は知ってるんだよね。わたしの夢が、わたしをこんな風にしてるって」
何かを決意したような、そんな表情で観鈴はしゃべりだした。
「夢をみるたびに、わたしはだんだん弱っていって、最後はきっと…空にいる女の子と、同じになってしまうって」
「そんなわけあるか」
否定しようとしたが、観鈴は止まらなかった。
「夢をみないなんて、できないから。わたしが思い出してあげなかったら、その子がかわいそうだから…だからわたし、がんばる。往人さんも手伝ってほしいな」
観鈴の瞳が、俺のことをうかがう。
「たくっ、何馬鹿なこといってんだか。いいか、もうひとりのおまえのことなんて考えなくていい。おまえはここにしかいない。だから、まず病気を治せ」
観鈴の部屋を出ると、とたんに叫び出したくなった。俺は一体、どこにいるのだろう? 誰かが見続けている、長い永い夏の夢。決して叶うことのない願いが、迷路の中をぐるぐると回っている。
俺の奥底にある何かが、否定を許さない。この少女は、決して海まで辿り着くことができない。大人になることなく、はかなく消えていく。そんな悲しい夢が、何度も繰り返されてきた。
知っているのに……このままじゃ取り返しのつかないことになってしまうと、そう分かっているのに。それなのに、俺は無力だった。
電話の下の引き出しを開ける。アドレス帳の上に観鈴の学校の連絡網があった。しばらく考えて、連絡簿をめくる。
遠野美凪。
知った名前がそこには書かれていた。こいつなら、観鈴の事情を知っている。
ダイヤルを回す。祈るような気持ちで、向こうからの返事を待つ。
(
…はい……遠野です)いつかのとぼけた声。
「…遠野美凪か?」
確認するように聞いてみる。
(
はい…? …そうですけど……)「今、神尾観鈴の家からかけている。覚えているか、少し前に駅で観鈴と一緒にいた男だ」
(
あ、…あのときの)気まずそうに答える。
「観鈴の具合がよくないんだ。観鈴とはあまり親しくないとは思うが、頼む。俺だけじゃどうにもならない。誰かの助けが必要なんだ」
(
…神尾さん、また癇癪を)それっきり、美凪は言葉を発しようとはしなかった。長い沈黙。痺れを切らして、俺は声を走らせる。
「お願いだ、頼――」
受話器が突如何者かに引っ張られる。
振り向くと、そこには観鈴が立っていた。
「遠野さん?」
確認するように、観鈴は電話の相手の名を聞く。そして、
「大丈夫。わたしは強いから」
笑った。
「遠野さんには、何にも迷惑なんてかけないから」
言葉が、違和感を覚えるほどにしおらしくて、それが切なかった。
「じゃあ、また今度」
受話器が元に戻される。残されたのは、静寂だけ。
「何やってるんだよ、おまえはっ!」
その瞬間、俺の中で何かが弾けて、
「なぜ自分からひとりになろうとするんだよ!」
ひたすら観鈴に怒鳴り続けていた。
「遠野さん、すごくいい人。往人さんも、すごくいい人。みんな、すごくいい人。ごめんね、往人さんは自分がどうしたいかだけ考えろって言ってくれたけど、やっぱり迷惑かけちゃいけないよね……にはは」
見ているほうが泣きたくなるような笑顔。
「嘘つくなよ。友達が欲しいんだろ? 一人は嫌なんだろ? やりたいことがたくさんあるんだろ? 誰かと一緒に、思いっきり遊びたいんだろ?」
俺の中の予感は、確信に変わっていた。
『友達が近づくだけで、その子は苦しがる』
『だからその子は、ずっとひとりぼっち』
『病みはじめてしまえば、それから先は早かった』
『夏はまだ、はじまったばかりなのに…』
『やさしくて、とても強い子だったの』
『だから…』
神尾観鈴、叔母のもとに預けられた子供。自分は部外者なんだと、幼いころに気づいてしまったから、誰にも甘えることなく、誰にも迷惑をかけない。
それが、彼女のなかの絶対的なルールになってしまった。
一人で遊んで、一人で笑って、一人で夢を見て…そして、この夏の中で、幻のように消えてゆく。
唇を噛みしめる。目の前の少女。観鈴の瞳はどこまでも澄んでいて、俺の姿を虚ろに映す。こんなに近くにいる。息づかいさえ聞こえる場所にいる。
観鈴は今も空に囚われている。そして、今も苦しんでいる。それなのに、俺はこいつに何一つしてやることができない……。
夕暮れ時、俺たちは観鈴の部屋にいた。
観鈴が好きな恐竜のぬいぐるみ。観鈴が使ってきた机やベッド。それら全てがオレンジ色に染まる。ここには俺と観鈴しかいない。何もしない。何も食べない。言葉さえ交わさない。ただお互いに、向き合って座っている。
結局行き止まりだった。観鈴が存在できる場所は、世界中でここだけだった。
ヒューッと何かが昇る音がして、続いてパンッとそれが弾ける音。
ぱらららららら
ヒューッ パンッ
ぱらららららら
「あれきっと、隣町の花火大会」
何度目かの音のあと、観鈴が言った。
「見に行ったことあるのか?」
静かに首を振る。
「家の前に出れば、少しだけ見えるの。わたしいつも、ひとりで見てた」
空気を震わせるような轟音が鳴った。
今、大勢の人が空を見ているはずだ。一瞬で消えていく光を追いかけ、幸せに笑っているはずだ。
表まで行くか? 誘ってみたが、「ここにいるだけで、綺麗だって分かるから」そう言って、じっと耳を澄ましていた。
やがて花火が尽きたころ、観鈴が苦しみ始めた。ベッドの上で、体をくの字に折り曲げる。パジャマの膝が濡れていき、観鈴の頬から大粒の涙が流れ続けていた。
「…だいじょうぶだから……行かないで……」
言葉を続けようとして、ぐっと息を飲む。
「どうして……みんな……わたしだけ残して……いや……だよ……お母さんも……お父さんも……晴子さん……遠野さん……佳乃ちゃん……それに、往人さんまで……みんな……みんな……はぅっ」
息を吸うことすら、つらそうだった。涙がこぼれ続ける。感情を抑えることができないようで、喉から振り絞るように声を出していく。
こんなことが続いたら、無事でいられるはずがない。心を通わせる者が観鈴をこんなにしてしまうのなら、俺は近くにいてはいけない。いますぐ観鈴から離れなければならない。観鈴をひとりにしなければならない。
………。
そんなことはもう、できはしなかった。
「あっ」
観鈴の腕をとって、手を握る。
せめて、これだけでも。
熱く火照った手のひら。こんなにか細いのに、どれだけ苦しければいいんだろうか。
「いいか、辛くても耐えろよ……俺がおまえのそばにいるから、おまえのそばにいたいから、だから……耐えてくれ」
なんて残酷なことを言っているのだろう。自分でも、そう感じた。
「うん……」
観鈴が返事をして、そして目を閉じ、ゆっくりと呼吸する。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫」
ずっとそのままでいた。
いつの間にか太陽が昇りだしていた。夜が、明けたのだ。
「やっと一緒にいられた。寄り添って、二人で一緒にいられた」
一晩中握り合っていた手を離した。
汗ばんだ手のひらに、「もう大丈夫だよ」そう言って笑った観鈴の温かさが残っていた。
「往人さん、ずっと一緒にいてね」
「ああ。おまえが嫌がったって、そうしてやるよ」
「じゃ、ずっとずっと一緒だね」
「ずっとずっと一緒だ」
右手の黒痣が疼く。何かが変わったようだった。
俺の中の、何かが……。
つめたい、何かが顔に落ちてくる。…涙?
体が動かない。観鈴があんなに泣いているというのに……。
「往人さんっ」
気がつくと毛布がかけられていた。
「よかった、もう起きないかと思った」
もう日が高いらしい。体を起こそうとして、顔が歪んだ。背中から痛みが湧き上がり、全身が強く痺れる。俺の体は、どうなっているのだろうか。
「顔色よくないよ。大丈夫?」
心配そうに観鈴が見つめる。
「なんでもない……、早くベッドにもどれ」
俺は逃げるようにそこを後にした。廊下を歩いている間も、じくじくとした背中の痛みが離れない。居間までたどり着くと、たまらずその場に横になった。
今まで体験した病気や怪我とは、どこかが決定的に違う。敢えて言えば、古傷が疼く感じに近い。だが、心あたりはどこにもない。
いや、もしかしたら……。
誰かと親しくなると、観鈴は泣き出してしまう。その様子を気味悪がって、みんな観鈴から離れてゆく。
『癇癪を起こし、他人と一定以上の距離を常に保とうとしている』
聖の言葉が脳裏をかする。俺は、癇癪を起こしても観鈴から逃げ出さなかった。もし癇癪以上の何かが、そんなものがあるとしたら……。
その瞬間、母の言葉が頭に閃いた。それは、今まであえて思い出すまいとしていた部分かもしれない。
『二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう』
『二人とも助からない』
それが、癇癪以上の何か。
相手を守るためにあえて癇癪を起こし、自分から離れるように仕向ける。観鈴はいつも他人に迷惑をかけまいとしていた。誰よりも、友達を大切にしようとしていた。そうして行きついた答えが、癇癪。
『病みはじめてしまえば、それから先は早かった』
『夏はまだ、はじまったばかりなのに』
『知っていたのに、私はなにもできなかった』
『誰よりもその子の側にいたのに、救えなかった』
どうして救えなかったのか?
たとえば、観鈴を救おうとする行為そのものが、観鈴を病ませていくとしたらどうだろう。助けようとした人間も病んでいき、そして、二人とも助からない。だとしたら、今、俺にできることはなんだ? どうすれば、観鈴を助けられる。どうすれば観鈴を苦しみから、解放してやることができる?
部屋の隅に俺の荷物が転がっていた。
結論は、最初からそこにあった。
二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう。ならば二人の心が遠ざかれば、まだ間に合うかもしれない。
人には誰でも望みがある。偉くなりたい。強くなりたい。賢くなりたい。俺の望み……観鈴を助けること。
「往人さん、海に行きたいな。砂浜で遊ぶの。かけっこしたり、水の掛け合いしたり」
観鈴の望むもの。誰もが飽きるほどやったはずの、他愛のない子供の遊び。たったそれだけのことさえ、俺は与えることができなかった。
「そして、最後にまた明日、って……でも今は我慢。その方が、海まで行けた時にもっと嬉しくなるから」
俺の望みを叶えるためには、観鈴の望みを諦めるしかない。
観鈴は笑顔だった。このことを告げれば、きっとその笑顔は消えてしまうだろう。だけど、告げるしかない。それが観鈴のためなのだから。
「そろそろ出て行こうと思うんだ」
「えっ」
観鈴の声は震えていた。
「そんな、ずっと一緒にいてくれる……そう言ってくれたのに」
「悪いな、そのことに関しては、謝る」
「これからだって思ってたのに、これからがんばろうとしてたのに、わたし、往人さんにいてほしい。ずっといてほしい」
…言うしかなかった。観鈴に、真実を。
『友達が近づくだけで、その子は苦しがる』
『だからその子は、ずっとひとりぼっち……』
『…それから、だんだん体が動かなくなる』
『あるはずのない痛みを感じるようになる』
『夏はまだ、はじまったばかりなのに……』
『知っていたのに、わたしはなにもできなかった…』
『二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう』
『二人とも助からない』
『そして……女の子は、全てを忘れていく。いちばん大切な人のことさえ、思い出せなくなる。そして、最後の夢を見終わった朝……』
『女の子は、死んでしまう』
観鈴は無言で、焦点を失ったままじっとどこか遠くを見ているようだった。俺の言葉、それがあまりにも自分と類似しすぎていて……。
「おまえが俺を選んでしまったからだよ……、これ以上おまえと居続けたら、俺のほうが先に倒れる。だから、おまえから逃げることにしたんだ。この町を出て、もうおまえと出会うことのない場所までいく」
「ひとりで?」
「ああ」
「やっと、ひとりじゃなくなったのに……」
「悪い。本当に」
「………」
長い沈黙。観鈴はずっと、瞳を閉じていた。それは、思い出を振り返っているようにも思えた。永い、とても永い沈黙。そして、観鈴は言う。
「あのね、往人さん。楽しかった。この夏休み、往人さんと過ごした夏休み。一番楽しかった。わたしもがんばれて良かった。往人さん、わたしにできた初めての友達。きっと、往人さんいなかったら、もっと早く諦めてたと思う」
「馬鹿、これからも頑張るんだろ。おまえは」
「そっか、そうだよね」
枕元にあるトランプを並べ始めた。最後まで観鈴はトランプで遊び続けた。ひとりで、さびしそうな背中で。
その姿が、観鈴を象徴していた。
「今朝の夢。わたしひとりぼっちで、閉じ込められてた。寂しかった。誰かが連れ出してくれるのを、ずっと待ってた」
トランプをしていた手が止まる。
「にはは、これにて観鈴ちんの夢語りコーナーはおしまい。往人さんはこの続きを見えないけど、わたしは見える。ちょっとお得」
「…観鈴」
「には、にはは」
観鈴の瞳からは、大粒の涙がこぼれていた。あとからあとから、こんな小さな体のどこに、そんなにたくさん詰まっていたんだと思うくらいに。
「最後は、笑っておわかれしないと駄目だよね。には、にはははは」
「ああ、そうだな」
そうして俺は、家をあとにした。