目が覚めたとき。
アリスは、柔らかなベッドの中にいた。
ここは、どこだろう?
いまひとつハッキリしない意識と視界の中で、少女は仰向けになったまま天井を見つめる。
それは、彼女が見たことのない場所のようだった。
顔を横へ向ける。
小綺麗に片付けられ、上品な調度品のしつらえられた小さな部屋だった。
枕元に置かれたテーブルの上では、少女が持ち出してきた人形たちがチョコンと腰をおろしている。
自分を見つめているその瞳が心配そうな色をしているように感じるのは、気のせいだろうか?
アリスには、今にも彼女たちが「大丈夫?」と声をかけてくるのではないかと、そう思えて仕方なかった。
「大丈夫。」と、人形たちに微笑みかけ、あらためて視線をめぐらせる。
自分達以外に、誰もいないのだろうか。
開け放たれた窓から陽の光がそそぎ、カーテンが風にそよいでいた。
「………」
自分は、どうしてここにいるのだろう。
いまだにぼんやりする頭で記憶をたどる。
「『化け物』の出現」という話を聞き、それを討つために家を飛び出し、そして二人の人間たちと対峙した…。
そこまでは憶えている。
けれど、その後はどうしただろう。
想像以上に、強い力を有していた人間。
それに対し、全力で攻撃を放った自分。
…その後は…???
眉間にしわを寄せ、アリスは記憶の糸を手繰り寄せていく。
そして、全てを思い出した瞬間。
少女はその身を跳ねさせて、ベッドから飛び起きていた。
急な動きに、傷を負った体が悲鳴をあげる。
彼女の顔が、苦痛に歪む。
「う……っ!」
全身を駆け抜ける激しい痛み。
だがこのままゆっくりと寝ているようなことは、彼女にはできなかった。
痛みに悲鳴をあげる身体を叱咤して、ベッドから這いずり出る。
わななく脚に力を込めて立ち上がり、一歩を踏み出そうとする。
…が。
途端に膝がカクンと折れ、少女はそのまま床へと崩れ落ちてしまった。
「く…っ 寝てなんていられないのに…! あいつらを…あいつらを…!!」
それでもなお、彼女はもがき続ける。
化け物を倒そうと颯爽と立ち向かい、そしてアッサリと返り討ちにあった。
そんな情けない姿をさらしておいて、このまま寝込んでいることなどできなかったのだ。
敷き詰められた絨毯に両手をつき、懸命に起き上がろうとする。
しかし、体がそれ以上言うことを聞いてくれない。
歯を食いしばり、アリスは必死に力を込めようとするが、それも結局、ただの徒労に終わった。
やがて力尽き、倒れこむ少女。
無人の部屋にひびくのは、彼女の荒い息遣い。
悔しさに歯を噛み締めながら、アリスはその手にコブシをつくり、そして床を殴りつけた。
「………っ!!」
顔を伏せたまま、二度、三度とコブシを床へと叩きつける。
やり場のない思いをぶつけるには、こうせずにはいられなかったのだ。
声にならない声をあふれさせながら、どのくらいそうしていただろうか。
アリスはその手でゴシゴシと目元をぬぐい、そっと、取り繕った顔をあげる。
部屋の扉の向こうに、人の気配を感じたのだ。
できることなら、その人物が扉を開ける前に体を起き上がらせておきたかったが、どうやらそうするだけの力は、彼女には残っていないようだった。
少女の見つめる先でドアノブが回り、そして静かな音と共に扉が開く。
部屋の内側へと開いた木の扉の向こうから覗いたのは、エンジ色のエプロンドレスを身にまとう落ち着いた雰囲気の女性だった。
いわゆる「従者」といった出で立ちでだ。
その女性の目が、まずは寝台の方へと向けられ、そして床に這いつくばる少女へと向けられる。
見上げるアリスと視線が合ったところで、彼女は驚いたように目を丸くさせた。
「あらあら、まだ起きてはダメよ。 外傷は少ないようでも、身体へのダメージは相当なものなのだから。」
少しだけいそいそとした様子で少女のもとへと歩み寄り、彼女を抱き起こす女性。
その諫めの言葉は、少女をいたわるようなやんわりとしたものだった。
女性に肩を貸され、ベッドへと戻されるアリス。
もう、彼女には身じろぎをするほどの力も残っていなかった。
「…私、負けたのね…」
体を横たえさせられ、布団をかけてもらいながら呟く。
自身の敗北…
認めたくないことであったが、こうまで体が動かなくなるほどのダメージを負ってしまっている以上、それは受け入れざるを得なかったようだ。
諦めたような目で遠くを見つめるアリスの顔は、何かをこらえているような顔をしている。
「…情けないったらないわね。 無様だわ。」
「…そうかしら?」
嘲るような笑みを浮かべる少女。
そんなアリスに、やんわりとではあるが、はっきりと疑問符を返す女性。
その声に、ただの慰めではないものを感じ、アリスはようやく傍らの女性へと視線を向ける。
そこで少女は、ハッと息を飲んだ。
女性の瞳に、深い悲しみの色が宿っていたのだ。
何故、この人までもがこんな瞳をしているのだろう。
「アリス。 負けたのは貴女だけではないわ。」
「………」
初めて目を向けたことで、ようやく気付いた一つの事実。
少女の瞳が揺れた。
女性の衣服の下から覗く痛々しげな白い包帯―。
「負けたのは『私達』よ。」
アリスの足元が、粉々に砕けていくような気がした。
神綺。
多くの魔界人から「母」のように慕われ、敬われている魔界の統治者。
彼女の傍近くには、その身の回りを世話する忠実で優秀な従者が、常に仕えていた。
それがこの女性、夢子である。
深紅のメイド服、腰まで届こうかという長く美しいブロンドの髪、凛々しく落ち着いた立ち振る舞い。
従者であると同時に、魔界でも屈指の力を持つ魔法使いとして、神綺の身辺警護をも担っている彼女。
そんな彼女のことを、アリスは見知っていた。
幾度か神綺との目通りがかなった際に、少しだけ言葉を交わしたことがある。
互いに、名前と顔くらいは知っているくらいの仲ではあった。
だからこそアリスは、「負けたのは『私達』だ」という夢子の言葉に愕然となったのである。
腕に覚えのある者、力を持っていると自負している者。
突如現れた「化け物」へと挑んでいった者は、アリスだけではなかっただろう。
誰もが、功名心や使命感によって、あの二人へと立ち向かっていったに違いない。
しかし結局、二人を止めることができた者は一人として存在しなかったらしい。
だからこそ、神綺の近衛である夢子までもが戦わざるを得なかったのだ。
そして。
その夢子までもが、敗れた。
そうなれば、恐らく神綺とて無事では済んでいないだろう。
アリスの脳裏を、最悪の光景が駆け抜ける。
「そんな…。じゃあ、神綺様は…?」
安否を問う少女の目が、すがるようなものになる。
ただの杞憂であって欲しかった。
ありえる話ではないのだ。
あっていい話でもないのだ。
神綺が、たかが二人の人間に敗れるなど。
「………」
沈黙する夢子。
その目が、ふと少女からそむけられた。
「……痛み分け…といったところよ。」
「………」
目をそらしたまま、ポツリとそれだけを呟く深紅の従者。
その言葉の意味するところは、アリスにも理解することができた。
「………そう…なんだ…」
「ええ…。 そういうことよ。」
夢子の顔は、苦しげである。
その表情はきっと「傷が痛むから」なのだろう。
アリスは敢えてそう考えることにした。
そう。
神綺が敗れる。
そんなことなどあってはいけない事であるし、絶対にありえない話なのだ。
「…そう。 痛み分け、ね。 …で、神綺様は?」
「床に伏せっておられるわ。 傷は深くないようだけど、心をずいぶんと痛めてらっしゃるみたいなの。」
「……『たくさんの人が、血を流した』から?」
「ええ、そうね。」
自分の意を汲んでくれた少女に感謝の念を送り、今度は真っ直ぐに瞳を見つめ、容態を説明する。
こちらについては、言葉通りの解釈をしても良いらしい。
せめてもの良い情報だった。
深く、安堵の吐息をつく。
しかしそんな気持ちも、すぐに別の感情へと取って代わられてしまった。
悔しさ。
情けなさ。
例の二人への怒りも感じなくはなかったが、それよりも何よりも、何もできなかった自分が歯がゆくて仕方がなかったのだ。
せめて、自分があいつらに手傷の一つでも与えていれば、もう少し違った結果になっていたのではないか。
せめて一発。
そう、ただの一回でも直撃させることさえできていれば、もしかしたら神綺の身に危害を及ばせてしまうようなことにはならなかったのではないか。
そんな思いが、どうしても頭から離れなかった。
「………っっ!」
きゅっと唇を結び、瞳に暗い光をたたえるアリス。
不穏な空気を発する彼女を、夢子が心配そうに見つめている。
この少女が、今、一体どんな思いを抱いているのか。
怒り、悔しさ、それとも自身への情けなさか。
暗く激しい、負の感情にとらわれていることは解っても、どんな思いに駆られているのか…
そればかりは、他人である夢子には、とても窺い知ることなどできない。
この少女に、今自分はどんな言葉をかけてやればいいのだろう。
「…アリス。 あまり思い詰めてはダメよ? 今は身体を休めること。 それが第一なのだから。 あなたがそんなになるまで戦ってくれたこと、それは神綺様も認めていたし、感謝してらしたわ。 だから…」
「………」
どうにか彼女を落ち着かせようと言葉を並べる。
その言葉は、果たして少女へ届いているのだろうか。
「だから… 今は傷を癒すことだけを考えなさい。 神綺様のためにも、ね。」
「…そう…ね…。」
ようやく返事を返してくれた少女。
しかし、夢子の心配は少しも晴れてくれることはなかった。
じっと、どこか遠くを見つめるアリス。
その瞳に宿った暗い炎は消えることなく、熾き火のように灯り続けている。
二つの人形が、そんな主のことをただただ静かに見つめていた。
二日が過ぎた。
目覚めた当初は動くこともままならなかったアリスの身体も、ここにきてようやく、歩き回ることができる程度にまで回復をみせていた。
そして。
少女は今、夢子とともに、屋敷の蔵書庫にいた。
それはすなわち、神綺の書庫である。
所狭しと並んだ巨大な本棚。
そこに、雑然と納められた無数の書物。
迂闊に歩き回れば、建物の中に居ながらにして遭難してしまいそうなほど。
それ程に、この蔵書庫は広く大きなものであった。
どう考えても、屋敷の敷地よりも広いように思えるが、アリスはそれを不思議だとは思わなかった。
神綺ほどの者からすれば、空間を歪めることくらい造作もないことであろう。
この「本の迷宮」も、そうやって創られているのだろう…と、彼女は納得していたのだ。
そんな中。
アリスは、自身の背丈の三倍はあろうかという書架を見上げる夢子の姿を静かに見つめていた。
「………」
身を休めている間に夢子から聞いた話によると、あの化け物たちは魔界を散々に蹂躙したのち、そのまま何もせずに自分たちの世界へと帰って行ったという。
それを聞いたとき、少女は耳を疑わずにはいられなかった。
当然だ。
何故彼女たちは、わざわざこちらの世界へとやってきて暴れまわっておきながら、そのまま何もすることなく帰っていったのか。
征服するわけでもない。
かといって、戦利品として高価な物や「宝」とされるような物を奪っていったわけでもない。
せいぜい、どこにでもあるような魔道書をいくつか持っていった程度である。
ならば、彼女たちがこちらへやってきた「真の目的」とは…?
少女は一人、寝台の中で彼女なりの答えを探し求めた。
他に何かすることがあるわけでもない二日間。
考える時間は、充分すぎるほどにあった。
そして…彼女は、ある一つの答えを導き出した。
それは「力の誇示」。
…すなわち「自分たちの力を見せ付けにきた」というものだった。
もちろん、これはアリスの推測にしかすぎないものであったし、全く見当違いなものである。
しかし少女は、自分の出した答えを「間違いのないもの」と決め付け、信じ込んでしまっていた。
ただでさえ、暗い感情にとらわれていたアリス。
そんな彼女が、実に二日もの間動くこともできないまま、寝具の中で一人じっと考えにふけっていた――
その結果、思考がおかしな方向へと向かってしまうのは、無理のない話ではないだろうか。
方向を誤り、一人歩きを始めた思考。
二日という時間は、それが暴走を始めてしまうのには充分だった。
「力を誇示しに来た」という推測は、「魔界の者たちが侮られている」という妄念へと変わり、やがてそれは「遊び半分で神綺を倒しに来た」というものにまで屈折してしまっていた。
敬愛してやまない魔界の統治者。
その彼女までもが、たった二人の人間に侮られている。
そんなことをされていながら、黙っていられるハズがない。
思考から生まれた妄念は彼女にとっての「真実」となり、それはやがて憎悪となって少女の中で凄まじいほどにまで膨れ上がっていた。
そして、そんな彼女がとった行動。
それが、これであった。
―神綺の蔵書から、究極の魔法の書き記された魔道書(グリモワール)を持ち出し、その力によって復讐を果たす。
そのために、彼女は夢子とともに神綺の蔵書庫へとやってきていたのだった。
「…この辺りのものなんてどうかしら。 扱えるかどうかは、相性やあなたの力次第だけれど、使いこなすことができれば間違いなく『究極の魔法』と呼べるものばかりよ。」
頭上の一角に納められた本を指し示す夢子。
「この辺りだ」と教えながらも、彼女は自らその本を手に取ろうという仕草をみせることはなかった。
究極の魔法や、術者の技量以上の力をもたらす秘術。
その手のものは「禁呪」とされるものが少なくない。
触れてしまうだけでも、何らかの影響を与えてしまうような、そんな危険なものだっていくらでも存在する。
夢子はそれを恐れ、避けているようであった。
「………」
指された先をじっと見つめるアリス。
触れることさえ躊躇われる…
そんなものであってもアリスの意思が揺らぐことは少しも無かった。
まっとうなものであの二人に復讐を果たすことができようとは、彼女とて微塵も考えていない。
ある程度…いや、かなり危険な手段をとらなければならないだろう、という覚悟はしていたからだ。
「これを…ここの本の魔法を使えば、あいつらを倒すことができる…」
うわごとのように呟きながら、少女は魔法によって体を浮揚させる。
頭上にあった禁断の書たちが、今、彼女の目の前で静かに眠り続けている。
眼下の夢子が曇った表情で見守る中、アリスは引き寄せられるかのように書架へと向けてするすると手を伸ばしていく。
そして、その細い指が一冊の本に触れたとき。
「…う……っ」
彼女は、強烈なめまいのような感覚に襲われた。
グラグラと揺れる意識。
それに耐えながら本を取り出そうと試みるが、めまいはますます強くなってくる。
まるで、本が彼女を拒絶しているかのようだった。
「………」
やむなく手を放すアリス。
少女の額には、いつの間にか脂汗が浮かんでいた。
「…大丈夫? あまり無理はしない方がいいのではなくて?」
わずかにだけ肩で息をついている少女に、夢子は心底心配をしているかのように声をかける。
しかし、アリスは彼女へと視線を向けることなく、次の書物へと手を伸ばしていく。
諦めるつもりは、微塵も無いようだ。
夢子は、そっと溜息をついた。
あの少女を受け入れてしまうような魔道書が、見つかることなく済んでくれればいいのだが…
そう彼女は密かに願っていたのだ。
こうして蔵書庫を案内してこそいるものの、復讐などというものなど彼女は望んでいなかったのだ。
ましてや、禁呪を持ち出してまでの復讐など。
しかし、だからといって、彼女は少女を押しとどめるようなことはしなかった。
止めたところで、この少女が素直に諦めてくれるとはとても思えなかったし、無理にやめさせたとしても却って無茶苦茶な手段にでてしまう可能性もある。
それならばいっそ、実際に禁断の魔道書に触れさせることによって自分の力不足を思い知らせ、その上で諦めるように説得するほうが良いのでは…と考えたのである。
「くぅっ…!」
三冊目の本に触れた少女の指先に、電流のようなものが走った。
これも、彼女を拒絶したらしい。
やはり、アリスを受け入れるようなものは、そうそう簡単に存在しないようだ。
このまま… このままの調子でいってくれれば…
見上げる夢子の視線が、祈るようなものになる。
…しかし、彼女の願いは、届かなかった。
「……これは…?」
四冊目にも拒絶され、そして五冊目の本に手を触れた瞬間だった。
アリスの体が、ほのかな光に包まれたのだ。
「………」
その光景を、つとめて静かな眼差しで見つめる夢子。
まさか、アリスを認めるような本があったとは…
計算外の成り行きに、彼女は強い後悔の念を抱いていた。
身を包む、柔らかな暖かい感覚。
自分の体が、軽くなったような気がする。
夢の中にいるようなフワフワとした感覚の中で、アリスはその本を手にとり、書棚から引き出していた。
「すごい… なんなの、この感覚…」
体が熱くなり、頬が紅潮するのは興奮によるものなのだろうか。
グリモワールを持つ手を通して、自分の奥底から何かが沸きあがってくるようだ。
目を輝かせながら、そっと表紙を開く。
風もないのに少女の髪がフワリと翻り、そして膨大な量の情報が彼女の中へと流れ込んでくる。
記された魔法を発現させた光景が、鮮烈なイメージとなって彼女の中へと映し出される。
それはまさに、彼女の求めていた「究極の魔法」と呼ぶにふさわしいものであった。
「見つけたわ…あいつらをやっつけるための『力』を…。 これなら…!」
「………そうね…。 その力なら、あるいは…」
興奮を抑えきれないアリス。
力はそれなりにあるとはいえ、まだ未熟さも残る少女。
そんな少女を主として選ぶような魔道書が、まっとうなシロモノであるなどとはとても考えられない。
「力」を与えると同時に、いったいどんな影響をもたらしてしまうのだろう。
夢子は、心の中で祈らずにはいられなかった。
願わくば、あのグリモワールが、危険なものではないことを。
そして、この少女が魔道書の力に溺れ、自分を見失ってしまうことがないような、そんな強い心を持ってくれていることを…。
「ありがとう、夢子。 本当に感謝するわ。」
「…ええ。」
アリスが心から他人に礼を言ったのは、今まで生きてきた中でどれほどあっただろう。
そんな感謝の言葉を、夢子は複雑な思いで受け止めていた。
夕方…
人形とグリモワールを抱きながら屋敷を辞するアリスの見送りに立ちながら、夢子は心配そうな眼差しを少女へと向けていた。
分厚く、そして大きな禁断の魔道書。
それがどれだけ危険で、そしてどんな影響をもたらすものなのか…それは解らない。
しかし、その力に溺れるようなことがあれば、それはすぐさま少女へと牙を剥くであろうことは間違いないだろう。
「くれぐれも用心して使うように。」
度々そう告げておいた夢子ではあったが、果たしてその言葉は少女にどれだけ届いているのだろう。
グリモワールを抱くアリスの周囲に、なにか異質な空気が淀んでいるような気がしてならない。
ただの思い過ごしであればいいのだが…。
それでも夢子はもう何度目かになるかであろう「忠告」を、もう一度口にせずにはいられなかった。
「アリス、何度も言うようだけど…。 それは貴女に力を与えると同時にどんな悪い影響をもたらすか解らない、いわば『諸刃の剣』よ。 それでも構わない…という覚悟があるのなら、これを使いなさい。 …けれど、注意して使うのよ? 決して力に溺れたりすることのないように、ね。」
恐らく、これが最後になるであろう夢子の警告。
その言葉を、アリスは疎ましげな顔をすることなく、真剣な表情で聞いている。
「そんなものは覚悟の上よ。 たとえ危険なものだったとしても、あいつらを倒すにはこれを使わなければならないの。 …大丈夫。 私だって、並の魔界人じゃあ無い。 使いこなしてみせるわ、この『究極の魔法』を。」
そう言ってニコリと微笑む少女。
その瞳を見る限りでは、まだ彼女は禁呪にとり込まれたりしている様子はないようだ。
しかし、それもいつまでもつことだろうか。
「じゃあ、そろそろ行くわ。 必ず…必ずあいつ等を倒してきてみせるわ。」
「……ええ、気をつけて。」
「ありがとう。 …神綺様に、よろしく伝えておいてね。」
静かに頷く夢子に、アリスは深々と頭を下げる。
顔を上げ、しばらく無言で互いの目を見つめてから、少女はくるりと身を翻し、そして空へと舞い上がっていった。
「………」
茜色に染まる空へと消えていく少女。
夢子は、その姿が見えなくなったのちも、じっとその方角を見つめ続けていた。
それから数日。
アリスは自分の家から一歩も出ることなく、夢中になってその魔道書を読みふけっていた。
すっかり興奮した面持ちの少女。
そんな彼女を見つめる人形たちの瞳は、なぜだかいつもよりも暗く沈んでいるように感じられる。
「すごい…! 力が、私の中に流れ込んでくる…。 書いてあることが全て入ってくるみたい…。 これなら、これならあいつらだって…!」
うわごとのように呟きながら、ページをめくり進めていく少女。
瞳には常軌を逸した光が宿り、彼女の周囲には禍々しい何かがまとわりつき始めていた。
その身体から発せられる気は、姿かたちこそ少女のものではあったものの、すでに彼女のものとは明らかに違う、冥く歪なものへと変わっていた。
そして、さらに数日が過ぎたころ…
少女の姿は、どこへともなく消え去っていた。
動くもののいなくなった小さな家。
以前より少しだけ散らかった部屋の中を、物言わぬ住人たちが静かに見つめていた。